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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

応答としての倫理

 
 ところで、倫理法則を神からの掟として捉えるときには、倫理の次元そのものが持つ意味も大きく変わってきます。
 
 
 倫理のための倫理というイデーにおいては、倫理は人間の自発的な意志によって打ち立てられるものでした。これは、カントが意志の自律と呼んでいたモメントにほかなりませんが、倫理的なものがこうした側面を持つことは、おそらく間違いないでしょう。
 
 
 さて、神からの掟というイデーに移ると、このモメントが新しい観点から捉えなおされることになります。人間が倫理的なものに向かうのは、確かに自発的な意志によるけれども、それは神の言葉への応答として行われるということになる。
 
 
 何よりも、まずはじめに神からの働きかけがある。自由意志が働くのはその後であって、倫理法則それ自体は神に由来するということになります。人間は、法則を守るか守らないかを決定することはできますが、法則の内容それ自体は決定することができません。
 
 
 カントの言うとおり、倫理法則(道徳法則)は確かに普遍的なものですし、先にも論じたように、絶対性・普遍性・完全性という三位一体の性格を備えています。けれども、それはこの法則の普遍性が、究極的には人間にたいする神の望みに根拠を持っているからだと考えることができそうです。
 
 
 
倫理法則 カント 三位一体 自由意志 意志の自律 掟
 
 
 
 「こうした想定は、まったく恣意的なものにすぎない。」このような批判は、もっともなものです。けれども、こうした想定をすることによって、小さくない理論的なアドバンテージを得ることができるとも言えそうです。
 
 
 たとえば、僕は「なぜ倫理法則を守らなければならないのか」という最も根源的な疑問にたいして、意志の自律というイデーだけではどうもうまく答えられないのではないかと思います。
 
 
 意志の自律がよいものならば、「他人を傷つけるのも構わず、断固としてエゴイズムを徹底せよ」という法則を自分に課して、なぜいけないのか。これもまた、意志の自律ではないか。
 
 
 「その法則は、人間に普遍的なものにはなりえない。そんな法則を人間が採用したら、社会が崩壊してしまうではないか。」しかし、一体なぜ社会を崩壊させてはいけないのか。普遍性など、どうでもいいではないか。
 
 
 意志の自律というイデーだけでは、こうした意見にたいして行き詰ってしまい、ただ法則の普遍性という言葉をくり返すしかないようにみえます。
 
 
 これに対して、神からの掟というイデーにしたがうならば、こうした意見にたいしては次の答えることができます。「これは、人間の自由になる問題ではない。人間ではなく、神がそう命じているのだ。」この路線にそって、もう少し考えてみることにします。