イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

絶対性と普遍性

 
 前回に論じたポイントは重要なので、もう少し掘りさげて考えてみることにしましょう。
 
 
 倫理のための倫理というイデーにしたがうかぎり、倫理への呼びかけは、次のようなものにならざるをえません。「さあ、みなで普遍的な倫理法則を守ろう。よい世界に向けて努力しようではないか。」
 
 
 この呼びかけは、それ自体としてはすばらしいものですが、残念なことに、次のように主張する人のことを止めることができません。「普遍性など知ったことか。わたしはわたしのエゴイズムを追求する。」
 
 
 おそらくは、カントの枠組みの最も大きな弱みになるのではないでしょうか。人間、あるいは人間理性のみにもとづくプログラムでは、悪魔的なエゴイストの主張にたいして返す言葉がありません。
 
 
 なぜなら、個別性よりも普遍性が、ひとりの満足よりも人類全体の幸福のほうが大切なものであるということは、決して論理のみによって証明できるようなことではないからです。カントの枠組みそのものにたいして、ニーチェのような人が真正面から砲撃を浴びせたゆえんです。
 
 
 しかし、神ならばこの悪魔的なエゴイストにたいして、おそらくは次のように言うのではないでしょうか。「あなたが何を望むかということが、わたしに何のかかわりがあろうか。わたし、このわたしが、あなたにたいして命令を下すのだ。あなたは、決して他の人間を傷つけてはならない。」
 
 
 
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 このように、神による掟というイデーにしたがうならば、倫理法則の普遍性は、神の要求の絶対性のうちに根拠を持つことになる。そして、おそらくはこの可能性だけが、無条件で普遍性を擁護することのできる道なのではないでしょうか。
 
 
 普遍性が普遍性以外の根拠を持たないということのうちに、現代という時代が抱えている倫理的なものの危機の原因があります。
 
 
 「皆のため」というロジックが通じない人が万が一にも現れてしまった場合には、どうしたらよいのだろう。私たちの時代の映画や小説は、そのような悪魔的なエゴイストのイメージであふれかえっているように見えます。
 
 
 そこで、神の絶対性というイデーに立ち戻ってみるとしたら、どうでしょう。絶対性というと、私たちがそこで抱く印象は、たいていはよいものとはとても言えません。
 
 
 けれども、普遍性を守りぬくためには、普遍性そのものを超える次元が必要だとしたら。有無を言わさないものだけが、人間の世界を暴力から守りぬくことができるとしたら。こうした問いへの答えは人によって異なると思われますが、神の掟というイデーは、私たちを倫理的なものの危機というモメントに立ち会わせずにはいないようです。