読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

カントとレヴィナスへの疑問

 
 先に論じた倫理法則の絶対性というモメントは、いまや神による掟の持つ絶対性として捉え直されることになります。そして、この法則がすべての人間に課されるのは、掟の絶対性のうちに根拠を持つということになる。
 
 
 普遍性が絶対性によって基礎づけられるというこの構造が、おそらくは倫理的なもののアルファにしてオメガをなすのではないかと思われます。このことはまた、「人間どうしの間の水平的な平和は、人と神のあいだの垂直的な平和によって実現される」と言いかえることもできそうです。
 
 
 カントをはじめとする近代の思考は、なんとかして水平軸のみから倫理を導き出そうとしていました(※)が、例の「悪魔的なエゴイストのアポリア」を解決することはやはり難しいのではないでしょうか。
 
 
 一方、エマニュエル・レヴィナスの試みは、超越の次元を水平軸の関係(わたしと他者の関係)のうちに見いだすことによって、やはり水平軸のみから「あなたは、殺してはならない」を導き出そうとしています。
 
 
 レヴィナスの思考は倫理と超越の分かちがたいつながりを示しており、とても大きな示唆を与えてくれます。しかし、彼はわたしが他性と向きあうことのうちに善さの次元を見いだしていますが、やはり、あの悪魔的なエゴイストに次のように言われてしまう可能性が残るのではないでしょうか。「他性など、知ったことか。わたしはわたしのエゴイズムを追求する。」
 
 
 
エマニュエル・レヴィナス エゴイズム カント 倫理 実践理性批判
 
 
 
 カントの普遍性も、レヴィナスの他性も、悪魔的なエゴイストから見れば、彼の自己性の障害でしかありません。この二つのモメントが、ともに倫理の根幹をなすものであることは確かでしょうが、これらだけでは倫理そのものを守りぬくことはできないのではないか。
 
 
 水平軸の普遍性ではなく、垂直軸の絶対性が、わたしと向きあう他者の〈顔〉の他性ではなく、わたしに掟を与える神の他性こそが、倫理を「悪魔的なエゴイストのアポリア」から救いうるのだとしたら。
 
 
 ところで、カントやレヴィナスの思考は、「いかにして神のいないところで倫理を守りぬくか」という問題意識から生まれてきたものなので、こういう風に神についてふたたび論じはじめるのは、信仰者としてはともかく、哲学者としては少し気が引けるところがあります。
 
 
 しかし、彼らの思考がエゴイズムの極限と対峙したときに危機におちいることは確かなようです。「神の帰還こそが哲学の問いとなるはずだ」という問題意識のもとで、もう少し考えてみることにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
[(※)カント『実践理性批判』においては、倫理の次元は最終的に神の存在を要請するにいたるので、事情はそれほど単純ではありませんが、彼における自律のモメント自体は神の存在を前提としていないので、上のように表現しました。それにしても、彼の議論においても倫理的なものと神のあいだに切りはなしがたい関係が結ばれているのは、とても興味深く思われます。]