「呪いはわたしの内にある。」わたしがわたしの自己性の執拗さを認め、自らのうちで働く悪魔的なエゴイズムの根絶不可能性に打ちのめされる時こそ、神による掟という次元が倫理的なものとして立ち現れる瞬間です。
神はいまや、次のようにわたしに言います。「もう十分だ。あなたはあなたの内から善なる法則が働きだすことを望んでいるが、そうなることは決してない。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」
「あなたに顔を向ける隣人があなたに悪を行うことを避けさせるのだと、あなたは言うのか。言っておくが、あなたはその隣人を、石で打って殺すことだろう。あなたのために流されたかれの血は、土の中からあなたに向かって叫ぶだろう。」
「だから、わたしは今、あなたに言う。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。あなたはわたしが語った掟を、代々にわたって守りつづけなければならない。」
この掟をわたしが受け取ることによって、掟はわたしを律する倫理法則となって、わたしの内で働きはじめます。わたしは、神の言葉にたいする応答として倫理的なものを引き受け、「他者に害を与えてはならない」という法則を内面化し、その法則を守ろうと努力することになります。
したがって、この第三のアプローチによるならば、確かにカントが言ったように、倫理的なものは意志の自律によって支えられますが、カントの想定に反して、自律によって始まるのではありません。自発的な引き受けは、絶対的に他なるものからの〈触発〉によってはじめて可能になるといえる。
フッサールという人は、超越論的な意識による能動的総合の根底に、受動的総合の次元を発見しました。
かれはそうすることによって、カント的な認識論の枠組みに修正を加えましたが、同じようなことを倫理の領域においても行いうるのではないか。
受動的総合は、無意識の領域から発して行われるひそやかな働きです。「生きている神が、無意識の底からわたしに呼びかけている。」私たちは、すでに死をめぐる探求においてこのテーゼを取り扱いましたが、意識の次元において働く倫理的なものを可能にしているのも、無意識の次元からの神による呼びかけによると考えることができるように思います。