「無意識の心の底からの神による呼びかけが、倫理的なものの根源をなしているのではないか。」神による掟というイデーはこうして、倫理的なものの受動的総合というモメントに私たちを導くことになります。
確かに、これが法外な想定であることは間違いありません。このようなことを主張する人は、「それは、あくまでも恣意的な仮定にすぎない」という批判を受けることを覚悟しておく必要がありそうです。
まるで、現代の思想をリミットにまでもたらしていったところに生きている神の存在が立ち現れるかのように、すべては進行しています。哲学的思考なるものがどこかで神という存在にコミットせざるをえないということだけは確かなようです。
本題に戻ります。神による呼びかけからはじまる受動的総合のプロセスは、次のステップとしての能動的総合へとコギトを促します。この能動的総合において、わたしは神の呼びかけにたいする応答として倫理法則を自発的に引き受けます。こうして、わたしは自らを意志の自律の主体として打ち立てることができるというわけです。
このような考え方は、コモン・センスからは大きく逸脱しており、にわかに受け入れることは難しそうですが、倫理的なものの持つダイモーン的な性格をうまく説明できるという利点があります。
「わたしはこのことを、行ってはいけないのではないか。」倫理法則に関してわたしがためらう時には、そのためらいは、ある意味でわたしのコントロールを超えているところがあります。
深いところからわたしに向かって呼びかけ、わたしを制止する声。この声は私たちのあいだでは、良心の呼び声と呼ばれていますが、コギトの能動的総合の次元にとどまるかぎり、この声がもつ執拗さの由来は謎のままにとどまります。
プラトンが語るソクラテスのダイモーンや、マルティン・ハイデッガーの良心の呼び声についての分析など、哲学者たちの中には、この謎の前に立ちどまった人びともいました。僕としてもこの伝統にならって、「良心の呼び声は、内なる心の中で響きわたる神の呼びかけである」というテーゼを提出しておくことにします。