良心の呼び声という現象には、身近なものでありながらも、どこかこの世を離れているようなところがあります。
そのため、この現象が哲学的分析の対象となることは、あるにしても稀だったと言ってよいでしょう。この点については、プラトンがこの現象にたいして、ソクラテスにはダイモーンの声が聞こえることがあったと書くにとどめていたことが、ただちに想起されます。
それはまるで、プラトンには、この神秘のうちに何か思考すべきものの存在を見てとってはいたけれども、それ以上に足を踏み入れることはできなかったかのようです。
現代になってからは、ハイデッガーがこの現象を現存在の存在論的分析において取り扱いましたが、これも謎を謎のままにとどめながら記述を行うに徹しているような印象があります。良心の呼び声のうちには、哲学という営みが立ち止まらざるをえない秘密があるのではないかと思われます。
この現象はどうも、超越の次元に深く進んでゆかなくては解明することができないのではないか。良心の呼び声を無意識の心の奥からの神の呼びかけとして解釈するというアプローチは、少なくとも一つの提案としてはありうるのではないかと思います。
さて、超越という話題がここに上ってきたので、ここで超越の二つのレヴェルを区別しておくことにしましょう。
1.内在的超越のレヴェル。倫理法則は、イデアルな次元から人間に禁止の命令を下します。
ここには確かに意志の自律というモメントがあるといえますが、法則それ自体はある意味で、個々の人間を超えているといえる。
この世のうちに現れながら、この世を超えているイデアルなものの次元を、内在的超越と呼ぶことにしましょう。
2.絶対的超越のレヴェル。しかしながら、生きている神自身は、決して完全なかたちではこの世に現れてくることがありません。
この世には決して現れてくることがないけれども、何らかの意味で存在すると考えられる何ものか。どこまでも人間を寄せつけない、近寄りがたく冥い光の次元。この次元のことを、絶対的超越と呼ぶことにします。