四月からこれまで、死、形而上学、倫理と、私たちは探求を行ってきました。引きつづき神の問いを追いもとめてゆくことにしますが、今回は少しトリッキーな角度から問題にアプローチしてみたいと思います。それは一言でいうと、恋愛の体験を考えることによって神に近づいてゆこうというのものです。
性と真理のあいだに結ばれるひそやかな関係については、精神分析学という学問をはじめとして、これまでにも実に多くことが語られてきました。このブログでも、「歌うことと欲望の真理」というシリーズでこの主題について考えてみたことがありますが、このあたりでもう一度取りあげてみることにします。
というのも、恋の体験ほど、神の体験に近くて遠いものもないからです。
わたしが彼女を、あるいは彼を恋するという出来事は、その恋が実存的な危機のレヴェルにまで進んでゆけばゆくほど、宗教的な色彩を帯びてきます。それと同時に、性を介した恋の体験と神の愛とをへだてる距離についても、決して無視することはできません。
このブログの筆者は男性なので、いちおう男性が女性に恋するという想定のもとに話を進めてゆくことにします。性差の問題は、けっして一筋縄ではゆかなないもののようですが……。
さて、今回の探求を進めるにあたっては、ある若者がひとりの女性に恋をするという設定のもとに議論を進めてゆくことにしましょう。わたしが愛するあの人を追い求めるとはいかなることであるのかを、これから哲学の視点から考えてみることにしたいと思います。
さて、信仰者の立場から最初に注意しておきたいのは、「ここには泥沼がある」ということです。
恋する若者よ、ぜひ気をつけていただきたい。恋の体験が泥沼だということくらいは誰でも知っていることですが、この体験においては、ひとが相手の魂を切り刻むということまでが合法として認められていることは、きみは知っているだろうか。
熱に浮かされて冒険に乗り出すと、ひょっとすると、命まで取られる羽目になるかも……。愛するあの人が悪魔かもしれないという可能性については、つねに心に留めておくべきです。