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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

恋の体験

信仰者とファム・ファタル 哲学
 
 まず最初に、今回の探求の方針について、一点だけ確認しておくことにします。それは、「今回の探求では、うまくいった恋については取り扱わない」というものです。
 
 
 わたしと彼女とが恋に落ちて、長い時間をかけて二人の関係を築いてゆくとします。わたしと彼女とは、より深くお互いのことを知るごとに、ますます人生の方向を共有するようになり、ついには永遠の絆によって結ばれるようになるかもしれません。
 
 
 その場合には、いわゆる「恋から愛へ」という移行が見られることになるでしょう。ひとが父と母を離れて、二人が一体となるというこの神秘は、いうまでもなく偉大なものです。
 
 
 しかし、ここで考えたいのはむしろ、それよりもはるかに不安定で、はるかに狂気に近い、愛する人をただひたすらに追いかける体験のほうです。それは、死と生が混じりあい、天地が消えうせ、世界がまるごと彼女のうちに飲みこまれるような、ほとんど宗教的ともいえる体験にほかなりません。
 
 
 幸い、私たちの国の言葉においては、この体験に恋という呼び名が与えられています。身を焦がすような、ピストルで自分の頭を撃ちぬいてしまいかねないほどの恋について、これから考えてゆくことにしたいと思います。
 
 
 
恋 愛 自我
 
 
 
 このような意味における恋の体験は、普通にいう愛の体験とははっきりと区別されます。愛は穏やかですが、恋は焼きつくします。愛は生かしますが、恋は殺します。
 
 
 愛は創りますが、恋は壊します。愛する人は世界のうちに自分の居場所を見いだしますが、恋する人は、居場所どころか、すべてのものごとの境目すら見分けがつかなくなって、ただひたすらに道を踏み迷います。
 
 
 愚かさそのものとまったく区別のつかない体験、ただ理由もなく、自我も世界も崩壊しつくさずにはおかないような恋の体験は、おそらくはきわめて深いところで、神の体験につながっています。少なくとも、どちらの体験も死の次元にむき出しでさらされることなしには近づくことができないことだけは確かなようです。