賢者は、かれに次のように言うことでしょう。「君は、わたしのうちに君にはないものを見いだして、わたしにたいして憧れの気持ちを抱いている。まだ若い君が、そのように思うのも決して無理のないことだ。」
「けれども、聞きなさい。君がわたしのうちに見いだしている神々しいものの像は、実はわたしそのものではない。光り輝くその像は、ある意味で、君の魂の内にあるのだ。」
「君自身に立ち返れ。内なる人にこそ真理は宿る。君の恋を、君の内なる人への恋に向け変えたまえ。」
そのように言われるならば、若者もこの言葉を聞き入れて、無事に正しい哲学への道に立ち返ることでしょう。
本当の師とは、おそらく、師ではないものの方に向かって弟子のまなざしを開くことのできる人のことなのでしょう。師は自分に向けられた恋をうまく用いて、弟子をあの永遠なるもののほうへと導こうとします。
さて、私たちが追っているあのファム・ファタルの場合には、事情はまったく違っています。彼女は、彼女以外のものが若者のうえに君臨することをけっして認めません。
悪魔的な女性のうちでは、真理や美を慕いもとめる気持ちと、こうしたものにたいする軽蔑とが、絶妙なブレンド加減で入りまじっているように思われます。彼女は真理をいくぶんか愛してはいますが、究極のところでは、自己自身のイメージしか愛していません。
彼女は言います。「真理、それはわたしである。美、それはわたしである。善、それは存在しないか、もし存在するとしたならば、それもわたしである。あなたはただ、わたしのことだけを見ていなさい。」
若者には、ひとを滅びへと向かわせるこの「わたしだけを見ていなさい」が、天への誘いのように聞こえています。師ではなくファム・ファタルに出会ってしまったのが、かれの命取りになったというべきでしょう。