イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

理念的なものの次元

 
 さて、恋の話題に戻りましょう。この体験における最大の逆説、それは、若者が憧れる「完璧なあなた」のイメージは、ある意味で、かれの愛しい彼女とはなんの関係もないということです。
 
 
 かれは確かに、彼女のさまざまな細部をかぎりなく大切にしておこうとします。けれども、容姿や話し方、身のこなしや趣味といった、彼女の無数のディテールは、かれ自身の考えに反して、恋の中核をなすものではないようです。
 
 
 恋のうちで若者が彼女のうちに見いだすのは、文字どおり完全であり、何ひとつ欠けるところのない一つのイメージです。
 
 
 もちろん、そのようなイメージをそっくりそのまま体現する人が現実の世界に存在することは決してありませんが、そのような幻を見て、その幻が肉をまとってこの世に現れたと信じきってしまうところに、恋なるものの狂おしさの理由があります。
 
 
 こうしてみると、恋の体験は人間にとって、厳密な意味において宗教的なものであることがわかります。恋こそは、この現代の世界のうちに生きる私たちを超越のモメントに立ち会わせる、ほとんど他に類例のない体験にほかならないからです。
 
 
 「完璧なあなた」のイメージは、無意識の心が探し求めずにはいられない、恋の目的因です。このものは、カントが言うような意味において、理念のなかの理念であり、おそらくは、人間の心のうちにもともとセットされているものなのでしょう。
 
 
 
完璧 無意識 カント 恋 信仰 超越
 
 
 
 彼女の無数のディテールが、かれにたいして恐ろしいほどの引力を発揮するのは、そのディテール自身に意味があるからではなく、それらのディテールが、かれが彼女のうちに見いだしている理念を起動させるからです。
 
 
 また、この理念は、かれの愛する彼女自身の魂のあり方とも実は関係がありません。彼女の魂の美徳は、ただかれの内にもともと宿っていた「完璧なあなた」の理念を呼び覚ますかぎりにおいて、かれの恋にかかわりを持つといえる。
 
 
 恋の体験は恋される対象とはほとんど何の関係もないという驚くべき結論が、ここから導かれることになります。恋と信仰の関係という今回の探求のテーマが、ここにいたってようやく浮かび上がってきたようです。