イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

献金について

 
 探求をはじめるにあたっては、たまには具体的なトピックから開始してみるのもよいかもしれません。僕が近ごろ少しだけ頭を悩ませているのは、ほかでもない献金の問題です。
 
 
 僕が通っている教会では、ほかの数多くの教会と同じように、献金を捧げることは義務ではありません。教会員はあくまでも、たえまなく愛を注いでくださる神ご自身への感謝の思いにしたがって、自分の日々の糧の中からいくぶんかを捧げることになっています。
 
 
 教会の隣にある幼稚園は、幸いなことに、とても人気があるようなので、そちらの方からの収入もあるのではないかとつい余計なことを考えてしまいますが、教会の運営は基本的に、教会員の人たちからの献金によって運営されています。
 
 
 さて、キリスト者にとって、自分のお金を主に捧げることは、汲めども尽きせぬ喜びの源にほかなりません。
 
 
 僕としても、もちろん献金をするという幸福を誰からも奪われたくないことは確かですが、なぜか自分の財布から硬貨や紙幣を取りだして献金袋に入れるさいには、身を切るような痛みが走ります。本当は嬉しいはずなのになぜこんなにも辛いのか、かねてから疑問に思っています。
 
 
 
教会 献金 神 キリスト 硬貨 紙幣
 
 
 
 「おお、わたしの金よ……。」何を言っているのか。お前の財産は、本当はことごとく神のものではないか。本来の持ち主に、かぎりなく恵みからほんのいくぶんかを捧げるだけではないか。
 
 
 「最近は学生の身分も失って、お金の心配が……。」お金のことが心配でない人など、この世に一人もいないではないか。君はふだんから「すべてを神と哲学に捧げる!」といきまいているくせに、なぜ実際に捧げられる機会が来ると、そんなにもためらうのか。
 
 
 そういうわけで、最近は献金のたびに自分の信仰が試されているような気がして、葛藤がつづいています。主よ、どうかわたしに、ためらうことなく喜んで糧を捧げることのできる魂の強さを与えたまえ……。
 
 
 ちなみに、教会においては、さまざまな事情でお金のない人は献金をしなくても構わないことになっているうえ、もちろん強制などはまったくないことを最後に付け加えておくことにします。問題は、ひとえに筆者自身のさもしい心持ちにあることは火を見るよりも明らかであるように思われます。