イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

蔓延するドクサ

 
 バビロン性の濃度不確定性問題は私たちに重大な問いを提起していますが、程度の違いからいったん視線を移して、本性の違いに目を向けることにしましょう。当たり前のようですが、哲学者として見過ごすことができないのは「利益と真理とは、切り離して考えるべきである」という論点です。
 
 
 哲学とは、真理を真理として見いだそうという営みです。したがって、プライオリティーは探求を行う人間のほうではなく、あくまでも真理そのものの方にあるといえる。
 
 
 そうなると、バビロン的な環境のうちで生活することは、哲学者に小さからぬ危険をもたらすということになってこざるをえないのではないか。欲望と罪の渦まくバビロンは、ドクサを数かぎりなく生みだす誤謬の天国となることが避けがたいと思われるからです。
 
 
 ドクサとは、真理に反する思いこみ、臆見のことをさすギリシア語です。邪悪な欲望の煮えたぎるバビロンでかわされる言葉は、おそらく、ドクサにつぐドクサ、虚飾につぐ虚飾、偽善につぐ偽善の大洪水となることでしょう。
 
 
 
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 もちろん、先に論じたように、2016年時点でのこの世のバビロン性を正確に測定することは不可能なので、はたしてこの世にどれほどのドクサが蔓延しているのかは誰にもわかりません。
 
 
 独裁国家などは、いくらなんでもやり過ぎなのではないかというくらいにウルトラドクサの連発状態を保ちつづけていますが、先進国の国々がドクサから完全に免れているかというと、おそらくそういうことにはならないと思われます。
 
 
 誰が見てもドクサとわかるドクサよりも、一見するとそれらしく見えるけれども本当は毒をはらんでいるドクサ、真実らしさによってひとを決定的な破滅に追いこむドクサのほうが恐ろしいということもありうるのではないか……。
 
 
 この辺りは、具体的なトピックに触れると途端にきな臭くなってくるので、とりあえずは純粋な哲学談義にとどめておくのがよいと思われます。このような状況においても、お天気予報くらいはまず間違いなく信頼できると思いますので、その点については安心しておいてよさそうです。