バビロンとドクサをめぐる問題については、哲学者として取りうる一つの選択肢を提出してみることにしましょう。それは、すでに何回か書いてきましたが、真理を求めて、荒野に旅立ってみるというものです。
もちろん、この選択肢はあくまでも案にすぎないので、他の数多くの選択肢の中の一つにすぎません。ただ、哲学者の中には、荒野で生きることを選ぶ、あるいは選んでしまう人も少なからずいるということは確かなようです。
僕は、真理を求めてがむしゃらに走りつづけていたら、気がついたら大学を辞めていました。今になってみると、もう何がどうなってそうなったのかをたどり直すことすらできませんが、生き方がどうしようもなく不器用だったことは確かです。
荒野をかっこよく選んだ、のではありません。それこそ、気がついたら荒野でした……。今の僕には、それこそ哲学と信仰しか残されていません。もう、何がまともで何がまともでないのかすらわかりませんが、最近はようやく覚悟が定まりつつあります。
こうなったら、真理の探求だけはあきらめられない。どちらにしろ何もないのは確かだとしても、せめてもの意地として、真理だけは自分の納得のゆくものを掴みとりたい……。
アウグスティヌスやペトラルカといった人物たちに共感を持ちつづけていたら、気がついたら彼らと同じように荒野にいました。どちらもキリスト者の先輩なので、その点は少し心強いですが、目に見えるかたちでの未来の展望がないことは確かです。
キリストにおいて哲学の真理を追いもとめて、荒野で生きる。自分でも書いていて、何が言いたいのかわかりません。話が脱線に脱線を重ねているような気もしますが、なぜか書かずにはいられません。
とりあえず、哲学者とお金の話について、自分の状況を絡めつつ最後まで書いてみることにします。もしよかったら、今しばらくのあいだお付き合いください。