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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

知るだけでなく、愛することを

哲学者とお金 哲学
 
 これから書くことはあくまでも僕が信じていることなので、他の方にはまた別の考えがあるかと思います。何かの参考になればということで書いてみますが、もしよかったら、少しだけお付き合いください。
 
 
 僕は哲学者として、真理を追いもとめることのうちには、それ自体としてかけがえのない価値があると考えています。それだけではなく、ひとは哲学をすることによってはじめて、この世の本当の姿を見いだすことができるのではないか。
 
 
 ドクサからおのれを解放して、すべてのものごとをあるがままに見つめてみたい。〈真理そのもの〉というイデーは、たとえ実際にそこに辿りつくことができず、さらには探求のうえでさまざまな誤謬に陥ることは避けられないとしても、哲学者たちをたえず駆り立てつづけます。
 
 
 僕は個人的には、哲学は芸術、数学や自然科学と並んで、人間が行いうる最も美しい営みの一つだと考えています。「哲学なんて何の役に立つのか」という声はいつでも絶えませんが、それでも、真理そのものへの憧れに突き動かされる人たちがこの地上から消えてなくなることは、これからも決してないでしょう。
 
 
 
ドクサ 哲学 ブログ テオーリア プラクシス 観想 実践
 
 
 
 ところが、この世には真理そのものの探求と同じくらいに、ひょっとすると、それよりも大切かもしれないことがあります。
 
 
 それは、傷ついている人を助けたり、困っている人のことを思いやって、実際にこの世界の中で行為することです。これは一言でいえば愛の実践ということになりますが、このブログの筆者は、政治や経済、医療や福祉といった領域は、原則としてこのことを第一の目的とするべきなのではないかと考えます。
 
 
 真理を知ることをテオーリア(観想)と呼ぶとすれば、こちらのほうはプラクシス(実践)と呼ぶことができるでしょう。問題は、人間は自らの人生のうちで、この二つのことのうちで、はたしてどのようにバランスを取ってゆくかということです。
 
 
 この世にお金というものが存在する以上、人間は望むと望まざるとにかかわらず、豊かさと暴力が密接に絡みあった世界のシステムのうちに組み入れられています。このことを確認したうえで、哲学者とお金の関係という目下の問題に、そろそろ暫定的な結論を下すことにしてみます。
 
 
 
 
 
 
[先日アップしたコンゴについての記事をきっかけにして、いつもこのブログにコメントをくださっている青梗菜さんが、コンゴの歴史について調べてくださっており、大切な学びの機会をいただいています。 以下に17日の記事のリンクを貼っておくので、興味のある方はご覧ください。内容は決して軽くありませんが、世界史について多くのことを教えられます。http://qinggengcai.blog2.fc2.com/blog-entry-1261.html