イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

筆者自身の、とりあえずの選択

 
 テオーリアとプラクシス。真理を知ることと、愛を実践すること。この二つのことのあいだの関係についてどう考えているのか、筆者自身の今の生き方も含めて書いておくことにします。
 
 
 筆者としてはやはり、これからも真理を知ることを人生の最重要課題のひとつとしつつ生きてゆきたい。プラクシスの重要性を無視することはできませんが、哲学を学んできた人間として、考えつづけることのかけがえのなさも否定することができません。
 
 
 ただ、知ることと愛することとは、たんに対立するのではなく、知恵を求めることが、愛の実践に深いところでつながっているということもありうるのではないか。
 
 
 キリスト者にとって、哲学をすることとは、神のもとで知恵を求めつづけることです。人間が考えることのできるあらゆる概念は、すべてどこかでキリストにつながっているはずだ。古代から中世にかけて、これと同じような考え方をもつ哲学者はたくさんいました。
 
 
 今の時代にはそのような見方をとる人はめっきり少なくなってしまいましたが、これからふたたび歴史上の転換が起きるということも、ひょっとするとありうるのではないか。少なくとも、僕はキリストに自分の哲学的生命のすべてを賭けてみようと考えています。
 
 
 
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 キリストは、人間に「互いに愛しあいなさい」と言いました。メッセージはかぎりなくシンプルですが、この言葉のうちにはひょっとすると、哲学者が一生をかけて追い求めるだけの深みがあるといえるのではないか。
 
 
 現実の厳しさに直面しつつ、それでも愛について語りつづけることで、哲学は、この世によいものをもたらすことができるかもしれません。哲学の言葉がもしも世の中の人びとに届くとするならば、そのことによって、世界は隣人愛がより多く実践される方向に向かうのではないか。
 
 
 なんとも心もとない望みではありますが、僕はやはり、哲学はまず何よりも、人間の魂のあり方にかかわる営みなのではないかと思う。今の時代は、目に見えるものを追いもとめつづける一方で、目に見えないものにたいする信頼を失っていっていますが、その流れにたいしては、哲学ははっきりと「そうであってはいけない」と呼びかけるべきなのではないかと思います。