イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

話しにくいけれど大事なこと

 
 哲学をすることは、真理を探求することであると同時に、隣人愛の実践を行うことにもつながっているはずだ。しかし、そうは言っても、やはり心残りは完全には消えません。
 
 
 哲学は、政治や医学と同じように人間にとって必要な営みであるはずだ、という考えについては変わりません。けれども、コンゴについて考えはじめた時に心にのしかかってきたあの重みは、依然としてどこかに残りつづけずにはいないようです。
 
 
 豊かな先進国で「ふつうに生活する」ということは、ひそかに振るわれる暴力や見えない搾取のシステムに加わることにどこかでつながっているのではないか。このことについては、私たちが生きているかぎりはどうしようもないような気もするし、そんなことを言う前に、自分でできるかぎりのことをした方がいいのではないかとも思えます。
 
 
 その一方で、僕が哲学をして生きることを選択した時点で、この世から痛みをなくしたり、気づかないうちに自分が虐げているかもしれない他の人びとにたいする不正をなくすことを人生の最優先事項から外してしまっているのではないかという疑いは、やはり拭い去れません。この点については、なんとも言い逃れできません。
 
 
 
哲学 隣人愛 真理 金
 
 
 
 この問題にかんしては、こののちも考えつづけてゆこうと思いますが、今回、一つだけ思ったのは、これからは自分にとって不都合なことが出てきた時にも、なるべく心のうちにしまっておかないようにして考えようということでした。
 
 
 自分一人で考えをめぐらす時でも、他の人と話す時でも、人間には、後味のよくない話にかんしては、できるかぎり存在しないことにしてしまおうとする部分があるのは否定できないように思われます。「誰も触れたくないような話題は、最初からなかったことにすればよい」という思考は、暗黙裡に人間のうちに働いているのかもしれません。
 
 
 自分たちが実は他の人びとを傷つけながら生きているのではないかという話は、語りにくいことは確かです。けれども、そういう話は、本当は自分自身のお金の話よりもずっと大事なことなのではないか。なかなか考えはまとまりませんが、今回はこのあたりで一区切りをつけるということにします。