ところで、哲学のアンダーグラウンドなるものについて話をしていた時に、年上の哲学徒の友人であるジェイコブさんから、次のように言われました。
「でもね、philoさん。あなたの話を聞いていたら、昔、好きだった新宿のラーメン屋さんのことを思い出しちゃいましたよ。」
ジェイコブさんが通っていたそのラーメン屋さんは、職人技が光る実にいいラーメンを出すお店だったそうなのですが、場所が悪かったのか、開店からしばらくした後につぶれてしまったそうです。
「あのラーメンは、本当にいい仕事だった。とくに悪いところがあったとも思えない。なのに店はなくなってしまったんですよ、philoさん。たとえ、どれだけすごい哲学や思想を抱いていたとしたって、そのまま知られずに海の藻屑ということだってありうるんじゃないですか……。」
せっかく張り切りはじめたのに、ピノコくんに続いてなんでそんなこと言うんですかジェイコブさん、と言いたいところではありますが、ジェイコブさんが提起している問題は、決して無視できないものです。
そのとき、僕は答えました。しかしですよジェイコブさん、知られなかったらどうしようという以前に、僕達はまだ、よい哲学や思想を持ってすらいない。持つ前から余計な心配をするより、まずよい知恵を持てるように頑張りましょうよ!そりゃ、知られずに朽ちてゆくのは怖いけれども!
というわけで、ソクラテスではないですが、まずは何よりも知恵にたどりつく必要があるのではないか。しかし、仮によい知恵なるものにたどりついたとして、その知恵を持ったまま船が大海に沈んでゆくのだとしたら、一体どうすればよいのでしょうか。
この点については、まずは古代の賢者である孟子が言うように、天を信じてみることが大事であるように思われます。
よい思想を持っているなら、天は必ずその人を見捨てたりしない。ただそのことを深く信じて、天の意思を追い求めつづけるのみである。
それでも破滅してしまったら、どうすればよいのでしょうか。孟子ならば、おそらくは次のように言うことでしょう。安心するんだ。そんなことは、絶対にない。天は絶対に、天命にかなう人間をないがしろにしたりしないのだ。
聖書も基本的には孟子と同じことを言っているので、とりあえずはこの言葉を信じるしかなさそうです。なんだか、めちゃくちゃに愚かなスタンスであるような気もしますが、どうやら、孟子と聖書はまた、次のように言ってもいるようです。「愚かになることを恐れるな。真実の道は、義と愛にみちた愚かさを生きぬくことのうちにある……!」