さて、哲学者がもしも名誉と金銭から身を引き離すことができたとした場合、その後にかれが目を真っ赤にして追い求めるものは何かといえば、それはリアルそのものとでも呼びうるものに他なりません。
リアルというこの語のうちには、実はとてつもなく深いものが隠されているのではないか。中世哲学や精神分析学など、さまざまな補助線を引くこともできそうですが、思想史へのレフェランスを編みあげることはまたの機会ということにして、ここは一気に事の核心に迫ってみたいところです。
リアルなもの、真に実在するといえるものは、人間を引きつけてやみません。たとえ狂っていると言われようとも追いかけずにはいられないもの、私たちはそうしたものをこそリアルと呼びうるのではないか。
「生きることを、ただ生きることを求めつづけていたら、こんなところまで来てしまった。」ソクラテスやニーチェが渇望しつづけたのは、ただこの、息をするのも忘れるというくらいに生きているという感覚にほかなりませんでした。
なぜアンダーグラウンドなのかという問いにたいする答えは、本当はこの点のみに尽きるのかもしれません。その答えとは、「命の言葉を求めつづけていたら、気がついたらここで書きつづけていました」というものです。
無条件に、ただ理由もなく、生の探求者はさまよいつづけます。ここにはおそらく、哲学者と芸術家と聖人の区別はありません。ただ旅だけが、行くあてのない永遠の巡礼だけがそこにあるのだといえるかもしれません。
この病に取りつかれてしまったら、もうどうしようもありません。制度や組織は、もう面倒をみてくれないでしょう。途中で力尽きて倒れてしまうかもしれません。けれども、それでも荷物をまとめて旅に出ずにはいられないだけの秘密が、この病のうちにはある。
実は、聖書のうちにもたくさんの旅人たちが出てきます。アブラハムやパウロといった人たちにとっては、生涯の全体そのものがひとつの旅にほかなりませんでした。もしこの感覚を忘れてしまうとしたら、おそらくその時にはもう、その哲学者はアンダーグラウンドで生きることの意味も見失ってしまうことでしょう。