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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

「殺害可能な存在」

 
 「役に立たない人間は、この世から消えた方がいい。」このロジックは、昨年の相模原の事件だけでなく、ナチス・ドイツによる障害者の殺害にも用いられました。今回の探求では、具体的なトピックというよりはこのロジックそのものに焦点を当てて考えてみることにします。


 さて、このロジックがいったん特定の人間や社会集団によって用いられるとなると、「役立たずの人間」にカテゴライズされた人たちは、無条件で殺害可能な存在とされてしまいます。


 ここで恐ろしいのは、殺害の可能性がまさしく無条件であることです。このカテゴリを適用する側の人間は、自分たちが殺そうとしている人たちと実際には一度も顔を合わせることのないままに、彼らをこの世から消し去るべきだという判断を下せるということになってしまう。


 もちろん、実際に殺されることになる人たちは、それぞれの人生を持ち、おのおのが周りの人びとに囲まれている、代替不可能な個人です。このロジックは暴力的なカテゴライズによって、そうした個人性を完全に抹消してしまうものであるといえます。



役に立たない 相模原 ナチス 人間 暴力


 
 「無条件で殺害可能な存在」。個人をそのようなカテゴリのうちに押しこめることは、もちろん許されてよいことではありませんが、実際の歴史においては、先に挙げたナチス・ドイツのような先例がすでに存在してしまっています。


 ところで、「役に立たない人間は、この世から消えた方がよい」というロジックを根底のところで支えているのは、「人間は、働いて何かを生産することができるかぎりにおいてのみ価値をもつ」という人間観であるように思われます。


 この意味からいうと、このようなものの見方が支配的になってしまっている国や社会で生きている人は、当座のところは健康で働けていても、不慮の事故や病気に襲われた場合には、すぐさま「殺害可能な存在」に認定されてしまうか、そうでなくとも、かぎりなく無意味に近い存在として扱われるということになってしまいかねません。そうした事態にはっきりとノーを言うためには、上のようなロジックに立ち向かうことのできる、別のロジックを打ち立てておく必要があるのではないかと思います。

 
 
 
 
 


ナチス・ドイツについては、昨年の四月にアウシュヴィッツを訪れたことをきっかけにして、倫理についての探求の途中で少し取りあげたことがあります。]