「人権なんてフィクションにすぎないのだから、いざという時には踏みにじったって構わないのだ!」もしも、Mr.ジョーカーのような人がそのように主張するとしたら、このブログの筆者としては、次のように答えるしか道は残されていないのではないかと考えます。
「そうではないと、わたしは思います。人権はフィクションではなく、リアルなものである。少なくとも、わたしはそう信じています。
だからこそ、無条件で奪われてよい命などというものはありえない。そして、この地球に生まれた人間は、国と人種の違いとにかかわらず、安全と富の再分配と幸福にあずかる権利をもつのではないでしょうか。」
人権はある意味でフィクションであるけれども守ってゆこうというのでは、どうしてもその主張の力は弱いものにならざるをえないのではないか。ここは「人権とは、時代や地域にかかわらず私たちが守るように努力しつづけてゆくべき永遠の理念である」と言いきる必要があるのではないかと、筆者は考えています。
「そうではないと、わたしは思います。人権はフィクションではなく、リアルなものである。少なくとも、わたしはそう信じています。
だからこそ、無条件で奪われてよい命などというものはありえない。そして、この地球に生まれた人間は、国と人種の違いとにかかわらず、安全と富の再分配と幸福にあずかる権利をもつのではないでしょうか。」
人権はある意味でフィクションであるけれども守ってゆこうというのでは、どうしてもその主張の力は弱いものにならざるをえないのではないか。ここは「人権とは、時代や地域にかかわらず私たちが守るように努力しつづけてゆくべき永遠の理念である」と言いきる必要があるのではないかと、筆者は考えています。
すでに一度論じたように、究極のところでは、ここで問われているのは、おそらくは次のような二者択一にほかなりません。
1.人間は、働いて何かを生産するかぎりにおいてのみ価値をもつ。
2.人間は、生きているかぎり無条件で価値のある存在である。
もしも1の方が受け入れられるならば、「無用な存在」や、あの「殺害可能な存在」にカテゴライズされてしまう人たちがどこかの時点で出てくることは避けがたいでしょう。そうしないためには、私たちは、2の立場を何としてでも死守する必要があります。
1と2のどちらを正しいとするかは客観的な基準によって判定できることではなく、個々の人間が選びとってゆくことなので、これは最終的には、信念と信念のぶつかり合いになるでしょう。これから詳しく論じることにしたいと思いますが、筆者は、ここにこそ近代という時代がこれまで見ないふりをしつづけてきた根底的な危機のモメントがあるのではないかと考えています。