イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

すべての人の救いという問題

 今回の記事では、次の論点について考えてみることにしたいと思います。
 
 
  「メシアは、その人がもしも本当にメシアであるならば、苦しみのうちにあるすべての人を救うことができるはずである。」
 

 わたしがたとえ今は苦しんでいないとしても、世界には苦しんでいる人が無数におり、わたしが今この時に苦しんでいるとしても、おそらくはわたしよりも苦しんでいる人が、やはり無数にいるだろう。そう考えてみると、今のわたしに救いが必要であるかどうかにはかかわらず、世界はつねに救いを求めているのだと考えることができるかもしれません。


 メシアは、彼がもしこの世界に来るとするならば、わたしだけではなく、苦しんでいるすべての人に慰めをもたらしてくれるはずだ。そして、キリスト者は、2000年前に現れたナザレのイエスという人こそ、そのメシアであったと信じています。


 ユダヤ人という人たちは、そういうメシアが必ずやって来るはずだということを固く信じていました。そして、ナザレのイエスこそ救世主であるということを信じた一部のユダヤ人からはじまって、その信仰を守りつづけてきた人たちが今も世界中のあちこちに散らばって生きています。筆者も、紆余曲折をへて、一昨年の年末にその人たちに連なることになりました。



メシア キリスト者 ユダヤ人 ナザレのイエス



 「人間にとってのよい生とは、すべての人が幸福になることを願って生きることのうちにあるのではないか。」メシアという存在は、そうした哲学的な問いかけを人間に投げかけると考えることもできるかもしれません。


 もちろん、すべての人が幸福になる世界は、メシアを信じること以外によって追い求めることもできます。医療や科学の発見、社会の変革によってそのことをめざす人もいますし、他の宗教を信じている人もいます。


 筆者は、すべての人が幸福になることを願い、その実現に向かって行動する人が増えれば、世界は少しではあってもその分だけ確実によくなるのではないかと考えています。そのことが口先だけの言葉で終わらないように、自分でもつねに気をつけておく必要がありそうです。