死と復活の問題は、メシアと哲学の関係について考えなおすという可能性を私たちに提示しています。この可能性を、ここでは次のように言い表してみることにしましょう。
「メシアは哲学を破壊せず、完成する。」
筆者は、死の問題はメシアなしには曖昧なままにとどまらざるをえず、したがって、「死ねば無になる」あるいは「死ねば個体性を失って、何らかの大いなる存在のもとに帰ってゆく」といった考えにゆきつくほかないのではないかと考えます。
しかし、「死ねば無になる」という考えは、いちど死の問いに取りつかれてしまった人には十分な答えではありえないことに加えて、必ず何らかのニヒリズムを伴わずにはいないのではないか。
そして、「死ねば、何らかの大いなる存在のもとに帰ってゆく」という考えは、それぞれの人間が代替不可能な個であるという意識を持ってしまった今日の私たちには、もはや十分なものであるとは考えられないのではないか。
これに対して、「人間は、神の愛によって死から救われる」というイデーは、信じて受け入れるしかないとはいえ、少なくともこうした曖昧さやアポリアを取り払うものであるといえます。
「メシアは哲学を破壊せず、完成する。」
筆者は、死の問題はメシアなしには曖昧なままにとどまらざるをえず、したがって、「死ねば無になる」あるいは「死ねば個体性を失って、何らかの大いなる存在のもとに帰ってゆく」といった考えにゆきつくほかないのではないかと考えます。
しかし、「死ねば無になる」という考えは、いちど死の問いに取りつかれてしまった人には十分な答えではありえないことに加えて、必ず何らかのニヒリズムを伴わずにはいないのではないか。
そして、「死ねば、何らかの大いなる存在のもとに帰ってゆく」という考えは、それぞれの人間が代替不可能な個であるという意識を持ってしまった今日の私たちには、もはや十分なものであるとは考えられないのではないか。
これに対して、「人間は、神の愛によって死から救われる」というイデーは、信じて受け入れるしかないとはいえ、少なくともこうした曖昧さやアポリアを取り払うものであるといえます。
もちろん、答えが明確だからといって、それが正しいとはかぎりません。この答えは証明するようなものではなく、あくまでも信じるかぎりにおいて受け入れられるたぐいのものです。
しかし、こう考えることもできるのではないか。「死後の問題がこの世でほとんど問われることがないのは、この問題がメシアの到来によってはじめて解かれる問題だからである。」
確かに、考えても絶望するしかない問題については、最初からそんな問題は存在しないことにしてしまった方が楽かもしれません。「死については結局のところ答えは出ないのだから、考えても仕方ない」という考えも、当然ありえます。
しかし、メシアが哲学を破壊せず完成するのだとしたら、どうだろうか。何が正しいのか確言できる人は誰もいませんが、少なくとも、「死ねば無になる」という考えが疑問の余地なく正しいわけではないことは確かなようです。