イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

メシア入門のおわりに

 
 メシアの問題系へのイントロダクションを行うという今回の探求の課題はいちおう前回までで果たしたということにしますが、十字架の出来事について考えることができなかったのは心残りです。
 
 
 それというのも、イエス・キリストの福音は、十字架の出来事のうちにすべて集約されているといえるからです。
 
 
 神の愛が十字架のうちにあるというイデーは、このイデーに慣れ親しんでいない方には、とても奇妙なものに感じられるのではないかと思います。筆者の場合、正直に言って、最初のうちは何がなんだかよくわかりませんでした……。
 
 
 しかし、この十字架なるもののうちには、人間には思いつくことの決してできないような神の秘められた計画の実現を見てとることができるのだと、聖書は語っています。次の機会には、この出来事の内実について、筆者なりに書くことにしたいと思います。
 
 
 
 メシア イエス・キリスト パスカル キルケゴール 境界不分明性テーゼ 哲学 神学
 
 
 
 今回の探求を通してはっきりと見えてきたのは、筆者の哲学には、哲学という営みそのものへの自覚的な反省がつねに求められるということでした。
 
 
 「人間は神の愛によって救われるのであって、哲学によって救われるのではない。」パスカルキルケゴールといった人たちは、そのことを常に忘れはしませんでしたが、それでも哲学をすることをやめませんでした。その哲学への情熱はいったい、どこから出てきたのか……。
 
 
 筆者は、「あらゆる哲学は神学であり、あらゆる神学は哲学である」という境界不分明性テーゼを掲げつつ、彼らの問いを引き継いでゆきたいと考えていますが、その際には、適切な戦術が欠かせません。どういった作戦に出て、どこに突撃をかけるべきか……。
 
 
 こうした問いかけはマージナルなものに見えて、実は、哲学の根幹に突き刺さるクリティカルなものなのではないか。この点については、これから先の探求で引きつづき考えてみることにしたいと思います。読んでくださって、ありがとうございました!