イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

もしも、10年前の自分が……。

 
 最近の哲学においては見失われがちなトピックではありますが、筆者としては、次の論点も挙げておくことにしたいと思います。


 「哲学は、知恵の探求を通じて、探求者自身の魂を完成させることをめざす。」


 おそらく、哲学においては、すべての領域が緊密につながっています。倫理の領域は周辺分野にすぎないものでは決してなく、むしろ、哲学の核心を占めるものにほかならないのではないか。


 人間としてどう生きるべきかを、探し求めること。もちろん、哲学者だからといって人格者であるとはかぎりませんし、むしろその逆のケースの方がめちゃくちゃに多いような気もしなくはありませんが、少なくとも理念のうえでは、魂の完成というテロスを外すわけにはゆかないように思われます。


 理念のうえでと書きましたが、本当は、哲学者は実際にもよい人間たらんとするように、どこまでも努力すべきかもしれません。なぜといって、もしもある人が誰にもまさる知識を持っていたとしても、もしもその人が魂のよさを持ちあわせていないとしたら、いったいその知識はその人にとって何の役に立ったといえるのか、わからなくなってしまうように思われるからです。


 これこそが人間の生き方だといえるような何かを、自らの魂のうちで育てあげること。人格者になるのはかなわないとしても、哲学の道を志す人にとって、そういう何かを求めることをやめないのは、やはり大切なことであるといえるのではないか。



哲学 倫理 テロス 人間



 ここまで書いてみて、筆者にはふと、ひとつの問いが思い浮かんできました。もしも10年ほど前、まだ哲学を学び始めたころの自分が今の自分の生き方を眺めることがあるとしたら、10年前の自分は、今の自分のことをどう思うだろうか。


 落ちぶれたと思われるだろうことは、どうやら間違いなさそうですが、せめて、何かを強く求めつづけてきたということだけを何とか認めてもらって、あとは大目に見てほしいところです。失敗もたくさんしたし、欠点となると数えきれないけれど、とにかく、何かを必死に探しつづけてはきたのだろう、と。


 「世界をよくしようと思うなら、とにかく、ひとりひとりの人を深く愛そうと努めること。」筆者としては、これが今までの探求の結論のひとつですが、こののちの残りの人生で、どういう結論が得られるのでしょうか。とにもかくにも、これからも、考えつづけることだけはやめないでいたいものです。