イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

秘儀はリスキーか

 
 今日からの探求のはじめに、一つの命題を提示しておくことにします。


 「人間はキリスト者になることを、決して自分からは望まない。」


 バプテスマ、すなわち洗礼という言葉は、信仰を持っていない方にもわりとよく知られているのではないかと思います。ヨルダン川で洗礼を受けたイエス・キリストにならって、キリスト者になろうとする人は、このバプテスマなる秘儀にあずかることになります。


 そのやり方はそれぞれのグループによって異なりますが、イエス・キリストに示された神の愛に生きるキリスト者たちにとって、その意味は一つです。すなわち、「古い人として死に、新しい人として生まれ変わること。」


 本当の意味で生きるためには、一度死ぬしかない。死ぬことによって、むしろ真の命のうちに飲みこまれるのである。キリストは十字架につけられて死に、三日目によみがえった。それと同じように、私たちも一度死んで、かれと同じように死者の中からの復活にあずかるのである……。


 ……と書くと、完全な「あっち側認定」を受けそうで怖いですが、正直に言って、キリスト者がある意味では完全に「あっち側の人間」であることは否定できません。


 ただし、真のキリスト者であるならば、少なくとも原理的には悪いことはしないはずなので、なんとか大目に見ていただけると、本当にありがたいところです。筆者の場合にも、なるべく言葉に気をつけながら哲学を追い求めることにしますので、どうかよろしくお願いいたします……!



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 さて、話は戻りますが、バプテスマを受けることが人生の再出発を意味するのなら、これは本来、とても喜ばしい出来事であるはずです。それなのに、人間がバプテスマを受けてキリスト者になることを決して望まないというのは、一体なぜか……。


 最初に思いつく答えは、「リスクがめちゃくちゃ高すぎるから」というものです。おそらく、自分が人生のどこかの時点で、一度死んで生まれ変わる秘儀にあずかるだろうと予想しつつ生きているという人は、ほとんどゼロに近いことでしょう。そんな危なそうなことにはできるだけ関わりたくないと考えるのは、思考としてはとても自然な流れであるといえます。


 筆者は、かつてはそのように考えていた人間のひとりでした。それがなぜ、神の愛について語りながら哲学を追い求めるという、ハイパーリスキーな生き方に足を突っこむことになってしまったのか……。ここには、自由意志なる概念をめぐる哲学上の問題が関わってきているので、この問題から出発して、哲学の探求をはじめてみることにします。