前回に見た2の命題を念頭に置きながら1の命題を眺めていると、次のような帰結が導き出されることがわかります。
3.もしすべての人間が自らの自由意志を貫徹させて生きるならば、いずれ地上からキリスト者は消滅する。
これは、他の人々にとってはともかく、キリスト者にとってはまことにショッキングな事態であり、もはやショッキングを通り越してこの世の終わりにも等しい悪夢であるといえますが、この3の命題には、アウグスティヌスをはじめとする多くのキリスト教哲学者が賛同するであろうと思われます。
この3の命題にしたがうなら、キリスト教とは、本来は、自然の流れに任せていると必ず地上から消え去るはずの宗教であり、むしろこれまで存続しつづけてきたことの方が奇跡であるということになる。じっさい、当のイエス・キリスト自身が、こう言っています。
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすであろうか。」
ここ数百年の人類は、各人の自由意志をますます尊重するようになっています。そのこと自体はいうまでもなく素晴らしいことですが、信仰者の立場からすると、喜んでばかりもいられないのではないか。じっさい、先進国の人々のあいだでのキリスト離れには、まことに目を見張るほどの勢いがあるといわざるをえません……。
これは、他の人々にとってはともかく、キリスト者にとってはまことにショッキングな事態であり、もはやショッキングを通り越してこの世の終わりにも等しい悪夢であるといえますが、この3の命題には、アウグスティヌスをはじめとする多くのキリスト教哲学者が賛同するであろうと思われます。
この3の命題にしたがうなら、キリスト教とは、本来は、自然の流れに任せていると必ず地上から消え去るはずの宗教であり、むしろこれまで存続しつづけてきたことの方が奇跡であるということになる。じっさい、当のイエス・キリスト自身が、こう言っています。
「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすであろうか。」
ここ数百年の人類は、各人の自由意志をますます尊重するようになっています。そのこと自体はいうまでもなく素晴らしいことですが、信仰者の立場からすると、喜んでばかりもいられないのではないか。じっさい、先進国の人々のあいだでのキリスト離れには、まことに目を見張るほどの勢いがあるといわざるをえません……。
話がつい内輪視点になってしまい、申し訳ありません。しかし、自由意志をめぐるこの議論は、より一般的な方向に話を広げてみることもできるのではないか。
自由意志は人間の尊厳にかかわるものであり、法律や社会制度においてこれを守ってゆくことはもちろん大切ですが、もしも人類がエゴイズムの方向に進んでゆくのに歯止めがかからなくなってしまったとしたら、人類はどこかの時点で大きな危機に直面することになるでしょう。自由であるとは、善に向かうのも悪に向かうのも自由であるということなので……。
近代、そして私たちの生きる現代という時代は、自由の理念をベースにして成り立っています。だからこそ、私たちはこの理念のかけがえのなさと同時に、その危険性をも、きちんと認識しておく必要があるのではないか。筆者の場合、哲学の自由を謳歌しすぎて、今になって自分の人生に困りはじめているところなので、まずは自分自身についての反省からはじめることにしたいと思います……!