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イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

もしも、そのような弱さを抱えた人が……。

 
 人間にとって理解が不可能であるように見えるところで、それにも関わらず、神の愛を信じること。弁神論の完結不可能性テーゼからは、もしも人間が神のことを信じるとすれば、どこかで必ずそのようなモメントに突き当たらずにはいないという結論が導かれるようです。


 けれども、ここで少し立ち止まって考えてみると、そのような行為は、ほとんど人間には不可能ともいえる強さを人間にたいして要求していると言わざるをえないのではないか。


 キルケゴールは、宗教的な英雄という人間類型について語りつづけました。しかし、彼自身が強調してやまなかったのは、そのような英雄的な強さに到達することは、人間には絶望的なまでに困難であるということでした。


 人間は弱い。そして、この弱さから目をそむけることは、人間自身の真実から目をそむけることになってしまわざるをえないのではないか。


 神の愛をどこまでも信じつづけるならば、人生からすべての苦しみは消えてなくなるはずです。それにも関わらず、たとえ神を信じていても、人は痛みのうちで神を見失う。強い信念さえ持てばよいのに、その強さはわたしからいつでも逃れ去りつづける。


 わたしにはもう、何もない。この世のすべては、わたしにとってはもはや助けにならないのに、それなのに、わたしはすべてを神に委ねきることさえできない。死を恐れながら、神を恐れながら、わたしはただ、痛みと苦しみのうちで、おのれと世界と神にたいする卑怯さのうちで震えている。



弁神論 神 愛 キルケゴール 救い



 けれども、もしも神の救いというものがありうるとすれば、それはこのような、どうしようもない弱さを抱えた人間であるわたしをこそ救いとってくれるものなのではないか。


 誰かに愛されるに値しない人間。何かを死にいたるまで信じきることもできず、英雄になってやろうと意気込んでは挫折し、この世で何かをなしとげたいと思いながら結局は何もできずに、ただ自分の部屋の中にこもって、どうにもならない思いをいつまでも書きつづけている。


 もしも、神がそのような人間のことをも、自分自身が痛むことをもいとわないほどに愛しているのだとすれば、そのことを魂の奥底から理解したときにこそ、その人は新しい人として生きはじめることができるのかもしれません。今日は、この点についてもう少し考えてみることにします。