イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

神の存在証明、あるいは理想の結婚論

 
 1.神については、人間にはその存在を論証することができず、人間は、神の存在については信じるしかない。(無知のモメント)

 2.それにも関わらず、人間は、神自身が人間に働きかけているとしか考えられないような瞬間に遭遇する。(知のモメント)

 
 上の二つの命題において示されている無知と知の逆説的な衝突について、 もう少し考えてみることにしましょう。


 まず、1の命題については、これが神の存在あるいは非存在については何も語っていないということに注意しておく必要があります。この命題が語るのは、神がいるかいないかはわからないけれど、たとえいるとしてもその存在を論証することは人間には不可能である、ということにすぎません。


 よく考えてみると、神がもし存在するとすれば、人間の側から存在証明をしてもらわなくても、神が神であることには全く変わりがありません。これは、ある子どもが自分のお父さんの存在証明をすることができなくても、お父さんがお父さんであることは変わらないのとロジックとしては同じであるといえます。


 仮に、子どもがとつぜん不安になって、「出張中のお父さんの存在証明をしないと、お父さんが存在しなくなってしまう……!」と心配になるとしたら、おそらくその子には、「そんな心配はいらないよ」と声をかけてあげたほうがよさそうです。


 話を本題に戻します。こうしてみると、1の命題は確かに無知のモメントを示すものであるとしても、この無知は、いわば判定不能の無知とでも呼ぶべきものであることがわかります。1からは、神がいるともいないとも断言できないということには、くり返し注意しておく必要がありそうです。



神 アンセルムス トマス・アクィナス デカルト ライプニッツ カント 結婚 存在証明
 
 

 ここでいったんひと息ついて、この点についてもう少し考えてみることにします。神の存在を人間が論証することができないということのうちには、信仰者の観点からすると、とても大きな意味があるといえるのではないか。


 仮に、人間の理性から神の存在を証明できたとすれば、人間が神を信じることは強制になってしまいます。そうなると、この探求のはじめに見た、自由意志によって神を愛するというモメントは、すべて台無しになってしまいかねません。


 アンセルムスからトマス・アクィナスをへて、デカルトライプニッツにまでいたる神の存在証明の議論は、カントにいたって、少なくとも証明というかたちでは崩れ去ってしまいましたが、人間と神の結婚という観点からみると、このことはかえってよかったといえるのかもしれません。強制結婚よりも恋愛結婚のほうが本人の納得がゆくと思うのですが、これ以上踏み込むと、絶対者の探究が理想の結婚論に脱線してしまいかねないので、今回はこの辺りにしておくことにします……!