イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

隠れた顔に向かって、確信は深まりつづける

 
1.神については、人間にはその存在を論証することができず、人間は、神の存在については信じるしかない。(無知のモメント)

2.それにも関わらず、人間は、神自身が人間に働きかけているとしか考えられないような瞬間に遭遇する。(知のモメント)


 1の命題については考察を加えたので、次に、2の命題の方を見てみることにしましょう。


 わたしの弱さがもはや耐えることができないとも思えるほどに極まるとき、神の愛がわたしへの働きかけとして、わたしの存在を満たしてゆきます。


 すでに論じたように、ここでの働きかけの主体がわたしではなく、神であることには注意を払っておく必要がありそうです。「わたしが神を求めたからではなく、まず神自身がわたしを愛したからこそ、わたしは神を求めているわたしに気がついた」というわけです。


 このような経験が現実にありうるかどうかについては、他の誰でもない独在的な主体としてのわたしにしか、判定をくだすことができません。そのような経験は、少なくとも論理的には十分に起こりえますが、この経験を他の人にそのまま伝えることはできないので、この経験を普遍的なものとして確証することが難しいのは確かです。


 神の愛の体験はその意味で、すぐれて私秘的な体験であるといえるのではないか。この出来事は、神とわたしとのあいだでのみ知られる秘密の出来事であり、この秘密は、それを語りだそうとすれば必ず語ることに失敗せざるをえないような、ある根源的な不可能性をはらんだ秘密であるといえるかもしれません。



神 存在 無知



 
 さて、仮にこのような私秘的な出来事がわたしに起こったからといって、1の命題が揺らぐことは決してありません。「神が存在する」という命題は、わたしにとっては以前として論証することの不可能な命題としてとどまりつづけることでしょう。


 しかし、この出来事を体験したわたしのうちには、神が存在するという確信がしだいに芽生えてゆくことが予想されます。


 この確信とは、決して確証されることのない確信でありながら、ますます深まってゆく確信であり、どこまでも深まってゆきつつ、それでもおのれを確証には決して引きわたすことのない確信です。


 この確信を抱く人の心のうちには、「私には知りえない!」という叫びと「神は存在する!」という叫びとが、まったく同時に響きわたります。この意味からすると、信仰者にとっては、神がどこまでも自分の顔を人間にたいして隠しつづけるということこそ、神の知恵の奥深さのあらわれであるということになるかもしれません。