イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

第三の審級

 
 わたしとあなたをめぐる対話において、哲学の観点からすると、次のモメントがきわめて重要になってきます。


 「わたしとあなたは、真理において語る。」


 語られることは、多かれ少なかれ、かならず何らかの真理において語られます。「2+3=5」を「2+3=4」に勝手に変えてしまうことは人間にはできませんが、これと同じように、真理をゼロから創造して語るということは、少なくとも人間には不可能です。


 わたしが仮に何らかの誤謬に陥りながら語っているとしても、その誤謬は、特定の間違いを含むものでありながらも、同時に必ず何らかの真理のある側面には触れているはずです。誤謬と真理をめぐるこの関係について深く思索した哲学者としては、おそらくヘーゲルの右に出る人はいないのではないかと思いますが、ここでは論点を指摘するにとどめておくことにします。


 本題に戻ります。わたしとあなたが語るときには、必ず真理の場がそこにある。真理とは、そうした第三の審級であり、主語面と述語面がそこにおいてあるところの「場所」であるといえるかもしれません。


 したがって、わたしとあなたの語りにおいては、わたしたちだけの間の秘密というものは、原理的にいってありえない。語ることとは真理の場に自己と自己の言葉をさらすことである以上、密会とは、ひとつの実現不可能な夢想にすぎないということになってきそうです。



ヘーゲル 真理 彼性 ジャック・デリダ ミシェル・フーコー ジャック・ラカン 言表 去勢 プラトン メノン


 
 おそらく、ジャック・デリダは、この不可能性にとても敏感な人だったといえるのではないか。


 また、この世のいかなる恋人も、自分たちだけの固有な関係を持ちえず、ただ恋というイデアを映すコーラとなることしかできないということのうちには、作家にとっての挫折と栄光が二つながら存在するといえるかもしれません。よくも悪くも、イデアを離れては話すことも書くこともできないというのは、言葉を語るものに共通の運命であるといえそうです。


 以上の点については、ミシェル・フーコーの「言表」からジャック・ラカンの「去勢」など、現代においてもさまざまな補助線を引くことができそうですが、哲学に身を捧げる人にとっては、やはり何といってもプラトンの『メノン』を挙げないわけにはゆきません。ソクラテスと奴隷の子のあいだに交わされるあの問答こそは、語りの場における第三の審級の現前についての不朽の証言になっているといえるでしょう。