イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

傷と真理

 
 わたしとあなたが対話するとき、そこには第三の審級としての真理がつねにとどまりつづけているというのが、前回の記事の論点でしたが、ここには、傷という主題も関わってくることに注意を向けておくことにします。


 「わたしの傷とあなたの傷は、ともに第三の審級としての真理との関係のもとにある。」


 おそらく、それぞれのコギトは、コギトがコギトであるかぎりにおいて、必ずある存在論的な傷とでも呼ぶべきものを抱えているのではないか。わたしにとってもあなたにとっても、生きるということは、傷において痛むということなしにはありえないのではないか。


 この存在論的な傷については、ジグムント・フロイトにはじまった精神分析の営みのことを忘れることはできませんが、ことは何も、精神分析にかぎったことではないように思われます。哲学や芸術、それに何よりも私たち自身の生は、まずもってこの傷のまわりをめぐるものであると考えることができるかもしれません。


 そして、傷は、それが傷であるというかぎりにおいて、必ず実存することの真理に深くかかわっています。


 病むこと、痛むことからは誰でも遠ざかりたいと望むというのは言うまでもないことですが、私たちの生は、いつまでもそこから逃げつづけるわけにはゆかないという構造になっているらしい。傷と痛み、そして病むことには、哲学はどこまでも深いつながりを持たずには成り立ちえないのではないかと、筆者は考えています。



対話 第三の審級 コギト 傷



 傷の普遍性テーゼ
 : 傷は、実存することの真理とかかわりを持つかぎりにおいて、私秘的なものでありながら普遍性のモメントにあずからずにはいない。


 あなたの傷は、あなたのコギトと同じように、一面ではどこまでも私秘的なものにとどまりつづけます。


 誰も、あなたの痛みをあなた自身が感じているのと同じように感じることはできない。だからこそ、わたしはあなたの傷がわたしからはどこまでも遠いものであることに、いつでも注意を払わずにはいられないでしょう。


 それにも関わらず、あなたの傷は、それが真理にかかわるかぎりにおいて、誰のものでもない、ある形而上学的な傷に重なってもいるといえるのではないか。


 この傷は、誰のものでもありませんが、どんな人の傷もその傷をいわば分有しています。ここには、誤解やディスコミュニケーションの可能性にさらされながらも、わたしとあなたが、共に一つの傷において、魂によって痛むという可能性もまた開かれてくるように思います。