イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

全部やめてしまいたいけれど

 
 ここで対話という主題を離れて、次の論点について考えてみることにします。


 「生きることとは、その人に与えられた苦しみを生きぬくことなのではないか。」


 苦しむことからは誰でも逃れたいと思うのが普通です。そして、もし苦しまなければならない場合でも、「この苦しみは一時的なものであって、時期が過ぎ去るならば、また苦しみのない時期がやって来るはずだ」と考えたくなるのが人間の性なのではないでしょうか。


 少なくとも、筆者はそうです。苦しみから逃げたい。生きることは辛い。もう何もしたくないし、何も頑張りたくない。


 けれども、もし、苦しむことが人間の本質に属しているとするならば、どうだろうか。


 本質とは、もしそれがなくなってしまうならば、そのものがそのものなくなってしまうような、そのもののあり方のことを言います。苦しむことが人間の本質に属するということは、この意味からすると、もし苦しまないで生きるのならば、人間には本当の意味で生きることができないということを意味します。


 もしそうであるとすれば、人間には、その人自身の苦しみを引き受けるということが求められているといえるのではないか。積極的に苦しみに向かってゆくことはないけれども、与えられる苦しみから逃げないことは、何よりも自分がよく生きるためにも必要なことなのではないか。



対話 苦しみ 本質
 

 そうは言っても、やはり、苦しむことは避けたいものです。筆者の場合、体調も精神状態も社会の中での立ち位置もかんばしくないので、もう全部やめたいと思わない日はほとんどないくらいです。


 けれども、本当の意味での喜びに至るためには、どこかで苦しまなければならないのだとしたら。そして、いま自分が苦しんでいるということが自分だけにとどまらず、いつか、苦しんでいる別の誰かのために少しでも役立つということが、ありうるとしたら。


 いや、それでももう嫌なんだ。もう苦しみたくない。これ以上僕にはできないよ、ピノコくん。僕は無能で、できそこないだ。卑怯でもなんでもいいから、もう全部から逃げたいよ。辛いんだ。苦しいんだ。


 でも、よくわからない。世の中には、自分が辛い目にあってでも他の人のために何かしようって頑張ってる人もたくさんいる。僕にはとてもそんなことはできないけれど、そういう人たちは、どうしてそういう風に生きられるんだろう。もう少しだけ、この辺りのことについて考えてみる。
 

(4月のある日に)