イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

軸のブレをめぐる三つの言葉

 
 しかし、考えなおしてみると、人生の軸がブレまくるというのは、哲学者の宿命というものかもしれません。


 「大きく思惟する者は、大きく迷わねばならない。」    
 
 
 迷いまくることこそ、思索の道を歩んでいることのしるしであると、ここでハイデッガーは言っています。


 当のハイデッガー先生自身が、人生のある時期には政治がらみでブレにブレまくっていたので、この言葉をそのまま鵜呑みにしてよいのかというツッコミがありうるかもしれませんが、やはり、この人が失敗の一方で偉大な思索者でもあったことは、否定しがたいのではないか。


 これと同じ意味のことを、孔子も言っています。
 

 「どうしよう、どうしようと言っていない者については、私もその者をどうしようもない。」
 
 
 どうしたらいいんだと絶えず悩みまくっている若者でなければ、ジェダイにはなれない。こんなもんでいいんじゃないすか的な妥協は、君子の道ではない。むしろ、ブレにブレまくる若者よ、君は正しい道を歩いているのだと、孔子は言っているわけです。


 これが本当だったらいいのですが、筆者はまだマグニチュード8くらいの震度でブレにブレている最中なので、はたしてハイデッガー孔子の言葉を信じていいのかどうか、断言することができません。いつか若者に同じことを自信をもって言える日が来るといいのですが、その前に朽ち果てる可能性は、けっして低くないように見えます……。



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 「軸のブレを、波動と考えろ。」
 
 
 かつて、そう歌ったアーティストがいますが、この言葉は、今の筆者にも人生を歩んでゆくための勇気を与えてくれます。波動を出しまくりながら生きるというのは、まさしくZ戦士たち的な生き方のど真ん中をゆくものではあります。


 ダメだダメだもう完全にダメだと悩みに悩みつくした結果、いつかどこかで超新星爆発級のエルアイグニスが到来し、現–存在の本来性に覚醒することができるなら、その時にこそ、それまでブレつづけていたことの意味がおのれに示されるのだろうか。先にも書きましたが、こればかりは、実際の逆転満塁ホームランを待たないと何も言うことができません。


 それにしても、筆者は学問の道を歩めば歩むほど、孔子先生の偉大さにノックアウトされることが多くなってきています。この人の言っていることならば信じてよいような気もするので、とりあえずはブレもやむなしということで、今日の考察を締めくくることにします。