イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

存在論的差異とは

 
 というわけで、哲学の未来のためにも、ぜひともキャンディーズの魅力の秘密に迫っておきたいところですが、ここで私たちは、マルティン・ハイデッガー存在論的差異と呼んだモメントに注目しておく必要があるように思われます。


 「存在論的差異とは、存在者と存在をへだてる差異のことである。」


 ハイデッガーによると、私たち現存在、すなわち人間はふだん、存在者のほうばかり気にしつつ生きており、存在のほうには目が向いていないのだと言います。


 「キャンディーズ?ああ、昔そういうアイドルがいたんでしょ。」


 存在者としてのキャンディーズを知っていても、その存在を知っているとはかぎりません。存在者を当たり前で取るに足りないものとして捉えているならば、ひとは、ハイデッガー存在忘却と呼んだ事態のうちに巻きこまれているといえます。


 「私、知ってるわ!ランちゃんミキちゃんスーちゃんでしょ?みんな、かわいいわよね!」


 その点については全く否定できませんが、しかし、キャンディーズ、あるいはランちゃんミキちゃんスーちゃんという存在者のほうにのみ注目していては、本当の意味でキャンディーズの存在に立ちあうことはできないのではないか。存在者ではなく存在の現れに立ち会うとき、現存在たる人間は、それはもうすさまじい驚き(「タウマゼイン」)に襲われずにはいないのではないだろうか……。

 

ハイデッガー キャンディーズ 存在論的差異 先駆的決意性 タウマゼイン アイドル



 というわけで、存在者を超えて、息を呑むほどの驚愕のうちに引きこむ存在にたどりつけるならばぜひともたどりつきたいところですが、それでは存在とは何かという点になると、当のハイデッガー先生は意味深い沈黙を保ちつづけていました。


 そんな、ここまで来て結局わからないなんて、ハイデッガー先生たら悪い人ね、その気にさせないでと、キャンディーズならずとも思わず叫びたくなるところですが(『その気にさせないで』は名曲です)、手がかりがないわけではない。


 ハイデッガー先生によると、存在に出会うためには、人間は先駆的決意性のうちに実存していなければならない。すなわち、自分はいずれ死ぬのだという運命を受け入れつつ死を先駆して、なおかつそれでもキャンディーズのことをどうしても知りたいんだ、やめられないこのままじゃ、根拠があろうとなかろうとこの探求に命をかけるという決意のうちに身を置くのである。


 死を前にしてもキャンディーズのことを知りたいという者にのみキャンディーズの秘密が明かされるというハイデッガー先生の断言はなんだか極端な気もしますが、それだけの重みもあります。哲学者にとっては、いつでも知ることは命がけであるということなのかもしれません……!