イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

この世はイデアのまわりを回る

 
 本題からは少し外れますが、よい機会なのでここで脱線して、以下の点について考えておくことにしたい。


 「イデアは存在する。」


 キャンディーズのメンバーたちは、「恋する普通の女の子」に扮して歌を歌います。しかし、誰もが知っている通り、「恋する普通の女の子」なるものは、そのままの形ではこの世には決して存在しません。


 恋愛というものは、男の子と女の子でするものだということになっています(ここでは、ヘテロな恋愛にいちおう話を限定しておきます)。男の子と女の子はそれぞれ、「恋愛ってこういうものらしい」というシナリオにしたがって、デートに出かけたり電話でしゃべったり、ご飯を一緒に食べたりすることになる。


 しかし、精神分析学も指摘している通り、「女の子」という役割ほど厄介なものはない。現実の女の子は、わたし別に本当は「普通の女の子」でも何でもないんだけどなぁとどこかで思いつつ、だましだまし「女の子」としてふるまいながら男の子と付き合ってゆくほかありません。


 男の子は男の子で、「女の子」というものはどうやらこの世には存在らしいということには、年を経るにつれてうすうす気づくようになってゆきますが、それでは「女の子」にどう向きあうかという点については、男の子と女の子のそれぞれが自分なりのやり方を築きあげてゆくほかありません。



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 「性関係は存在しない」(ジャック・ラカン)にもかかわらず、恋愛をしたいならば、その存在しない関係といつまでも付き合いつづけなければならないところに、人間であることの悲喜劇があります。けれども、このことは哲学者の目から見ると、とても興味深いことでもあるといえるのではないか。


 「恋する普通の女の子」というのは、現実にはそのままの形では決して存在することのないイデアです。しかし、このイデアをめぐって、男の子は恋に燃え、女の子はおしゃれに精を出し、キャンディーズは歌を歌って、そうしてこの世が今日も回りつづけている。


 この世がこの世には存在しないものをめぐって動いているというのは、よく考えるととても不思議なことです。哲学者の仕事の一つは、世界を動かすこのイデアなるものの存在を、ここの領域のそれぞれにおいて見いだすことにあるのではないか。


 古代から中世、そして実は近代から現代にいたるまで、イデアというものの存在を信じていた哲学者は数知れません。かくいう筆者もその一人ですが、ここには哲学と神学を貫く大問題が絡んでいそうなので、これから機会のあるたびに、少しずつ考察を深めてゆくことにしたいと思います。



 
 
 
 

イデアのもつ信仰対象という性格については、すでに一度、少しだけ考えてみたことがあります。]