今回は少し(かなり?)マニアックになりますが、イデア論をめぐる七つの観点を提示しておくことにします。
1.認識論的観点。フッサールの研究は、意識における意味作用のイデア的同一性を発見するところから、本格的に始まりました。のちに「本質直観」としてまとめあげられてゆくこの発見は、現代におけるイデア論を考えるうえでの一つのスタンダードを提供しています。
2.生命論的観点。動物行動学の成果をもとにアリストテレス『魂について』などを読みこんでゆくと、どうも人間のみならず、動物たちの意識もイデア的なものによって構造化されているようにみえます。カントの構想力概念の読みなおしなども含めて、人間と動物のあいだに引かれてきた分断について、考えなおしてみるべきなのではないか。
1.認識論的観点。フッサールの研究は、意識における意味作用のイデア的同一性を発見するところから、本格的に始まりました。のちに「本質直観」としてまとめあげられてゆくこの発見は、現代におけるイデア論を考えるうえでの一つのスタンダードを提供しています。
2.生命論的観点。動物行動学の成果をもとにアリストテレス『魂について』などを読みこんでゆくと、どうも人間のみならず、動物たちの意識もイデア的なものによって構造化されているようにみえます。カントの構想力概念の読みなおしなども含めて、人間と動物のあいだに引かれてきた分断について、考えなおしてみるべきなのではないか。
3.論理的観点。ここでも、カギとなるのはフッサールの『論理学研究』ですが、イデアとロゴス、すなわち、理念と言語の関係について、後期ハイデガーやポスト構造主義の探求の成果を踏まえつつ、ロゴスの根源性に留意した言語論を練りあげる必要がありそうです。
4.神学的観点。3の仕事が重要なのは、ロゴスという概念が、子の位格としての神そのものでもあるという意味において、神学的にみて重要極まりないものであるからです。古代のユスティノスや中世のアベラールをはじめとする哲学者たちは、すでにイデアとロゴスの関係について、多くの研究を残してくれています。
5.自然学的観点。ロゴスという概念は、神学から自然の世界への「帰り道」を可能にすることで、イデア-ロゴス-ピュシスという思考の道のりを前進します。ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の「道徳の地質学」のくだりなどは、現代のロゴス-ピュシス論の実践の一つとして読みうるのではないか。
6.円環的観点。ピュシスからふたたびイデアへの移行を追うことで、イデア論の道のりは完成することになります。ただ、この点については、ロゴス-イデアという神学的含意を踏まえつつ、ロゴス-ピュシス-イデアという三項関係で捉える必要がありそうなので、少し事態は複雑かもしれません。
7.哲学史的観点。これは余談になりますが、村上春樹氏の最新作の第一部は、「顕れるイデア編」と題されています。文学者はときに哲学者よりも先をいって来るべき思考をとらえるので、氏の感性が時代の動きを敏感に受信した可能性は否定できません。
そのことの当否はともかくとしても、ドゥルーズなどは、少なくとも中期までは明白な隠れイデア論者なので、その辺りのことも含めて、現代の哲学氏を見つめなおしてみる必要がありそうです。
4.神学的観点。3の仕事が重要なのは、ロゴスという概念が、子の位格としての神そのものでもあるという意味において、神学的にみて重要極まりないものであるからです。古代のユスティノスや中世のアベラールをはじめとする哲学者たちは、すでにイデアとロゴスの関係について、多くの研究を残してくれています。
5.自然学的観点。ロゴスという概念は、神学から自然の世界への「帰り道」を可能にすることで、イデア-ロゴス-ピュシスという思考の道のりを前進します。ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の「道徳の地質学」のくだりなどは、現代のロゴス-ピュシス論の実践の一つとして読みうるのではないか。
6.円環的観点。ピュシスからふたたびイデアへの移行を追うことで、イデア論の道のりは完成することになります。ただ、この点については、ロゴス-イデアという神学的含意を踏まえつつ、ロゴス-ピュシス-イデアという三項関係で捉える必要がありそうなので、少し事態は複雑かもしれません。
7.哲学史的観点。これは余談になりますが、村上春樹氏の最新作の第一部は、「顕れるイデア編」と題されています。文学者はときに哲学者よりも先をいって来るべき思考をとらえるので、氏の感性が時代の動きを敏感に受信した可能性は否定できません。
そのことの当否はともかくとしても、ドゥルーズなどは、少なくとも中期までは明白な隠れイデア論者なので、その辺りのことも含めて、現代の哲学氏を見つめなおしてみる必要がありそうです。