イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ロゴスとイデア

 
 来たるべき知恵の探求を、ここで仮に哲神学と呼んでおくことにすると、哲神学的な観点からは、次のような点を指摘することができそうです。


 「ロゴスとイデアは、それぞれ〈語られたもの〉と〈見られたもの〉として、互いが互いに向けて対向する。」


 信仰の言葉によれば、世界はロゴス、すなわち語られる言葉によって創造されます。このことに対応するようにして、哲学者たちは、見える世界を超えて見えないイデアを見てとるように魂の修練をつづけてきました。


 「見えないイデアを見てとる」という撞着語法的な表現のうちに、すでに思考するべきアポリアがはらまれていることは明らかですが、とりあえず本題に戻ります。哲学と神学をその境界不分明性において探求する哲神学の立場からすると、次のように言えるかと思います。


 「世界は語られた言葉であるロゴスによって、このロゴスに対向するイデアにしたがって創造される。」


 この表現でよいのかという点についてはさらに検討を加えてゆく必要がありそうですが、とりあえずのところは、ロゴスとイデアという問題圏の所在を示したということで満足しておくことにします。
 


ロゴス イデア ハイデッガー 井筒俊彦



 見られたかたちであるイデアが人間を超越しているのと同じように、語られた言葉であるロゴスも、人間を超越しています。ここで私たちは、人間を超えたところで語られる言葉という、近代の哲学のパースペクティヴには収まりえない領域の前に立つことになります。


 ただし、先駆者がいないわけではない。たとえば、私たちの国の先駆者である井筒俊彦先生は、ロゴスそのものである〈コトバ〉の哲学を追い求めつづけました。また後期ハイデッガーの言語論や現代フランス哲学の展開を考えてみると、現代の哲学は、すでに言語を神学的なレヴェルにおいて捉えなおしはじめているといえるのではないか……。


 いずれにせよ、ロゴスとイデアをめぐるこの問題は、私たちをもはや哲学でも神学でもあり、同時にそのどちらでもないような知の探求に向けていざなっているように思えます。ここではとりあえず哲神学Theosophyという名称を用いてみましたが、この探求には、他にも追ってみるべき対象がかず多く存在していると思われます。



 
 
 
 

[この問題については、以前にも少し考えてみたことがあります。]