イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

絶対的内面性と超越のトリアーデ

 
 第三の位格である聖霊については、次の論点を指摘しておくことにします。


 「第三の位格はわたしにおいて、絶対的内面性とでも呼ぶべきモダリティを構成する。」


 信仰の言葉によれば、第一の位格である父や第二の位格である子と同じように、第三の位格である聖霊もまた絶対者であり、神自身です。つまり、絶対者はわたしに向きあう顔であり、わたしに向けて語られるロゴスであるのと同時に、わたしの内で働く命の息吹そのものでもあるということになる。


 この意味での内面は、いかなる内面よりも内なる内面であり、第三の位格としての絶対者は、いわば、わたし以上にわたしであると言うこともできるかもしれません。わたしの内で語るのはわたしよりも深くわたしであるような絶対者であり、この意味では「わたしとは他者である」と詩人が語るのも、あながち根拠のないこととは思われません。


 絶対者とわたしの関係をめぐるこのモメントは、メシアを内面性として捉えようとするエマニュエル・レヴィナスの思考や、最晩年の論文『場所的論理と宗教的世界観』における西田幾多郎の思考ともダイレクトに響きあうものです。絶対者の内部性と外部性をめぐる宗教哲学上の議論の錯綜は、三位一体論のロジックによって調停されるのではないかと筆者は考えています。



第三の位格 絶対的外部性 絶対的内面性 内在的超越性 エマニュエル・レヴィナス 西田幾多郎 絶対矛盾的自己同一
 
 

 神は、
 1.〈存在〉として、わたしと世界を絶対的に超越する。(絶対的外部性)
 2.ロゴスとして、世界を創造しつつ世界を超越する。(内在的超越性)
 3.命の息吹として、わたしの内で語り、わたしの内で働く。(絶対的内面性)


 絶対的内面性と絶対的外部の絶対矛盾的自己同一。内在から超越へと上昇するトリアーデの超論理的統一。三位一体論は哲学的思考にたいして、通常の論理を超えたところで働く、絶対者の位格の複構造を語ります。


 三位一体論は哲学を廃棄することなく、かえってこれを完成させるとも考えうるのではないか。哲学は、論理を矛盾へともたらしつつ論理を高次のものにもたらすというあの古いイデーは、筆者には、少なくとも一考には値するもののように思われます。