イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ドイツ観念論との交錯

 
 三位一体論の視点に立ってみると、「わたしが考える」というごく当たり前のものに見える出来事も、まったく違ったふうに見えてきます。


 「わたしは、絶対者において考える。」


 まずは、以前にも少し論じたように、語る、あるいは考えるという行為は、真理との関わりなしには生じえません。このことは、三位一体論の言葉づかいを用いるならば、「わたしはロゴスにおいて考える」と表現することができます。


 より立ち入った表現でゆくならば、ロゴスがわたしにおいて考える言った方がよいのかもしれません。絶対者であるロゴスにおいて、わたしのコギトという場のうちで、思考という出来事が起こり、語りが語られるというわけです。


 わたしの役割は語りを創始するのではなく、むしろ、ロゴスにおいて語られる言葉を聴きとることのうちにある。カントのいう統覚と悟性の働きは絶対者の側にあり、わたしのみに固有な機能は感性の直観に、すなわち受容の役割に限定されるということもできるかもしれません。


 リトアニア出身の哲学者であるザロモン・マイモンの探求に触発されたドイツ観念論の哲学者たちも、カントの哲学をこれに近い方向で考えようとしました。筆者も、少なくとも思考を絶対者において捉えるという点においては、彼らと見方を同じくしています。



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 本来的な思考は、
 3.息吹であるかぎりの絶対者が、
 2.ロゴスであるかぎりの絶対者において語る。


 思考は、その思考が本来的であるかぎりにおいて、子と聖霊の位格が関わっているということになる。それでは父の位格はどうなっているのかというと、父は現象しないというしかたで、思考に関わっています。


 1.本来的思考において語られることは、けっして現象することのない父の意に適っている。


 これはあくまでも理念上の議論なので、この世に果たしてこのような本来的な思考なるものが実際に存在するかどうかは、誰にも断言することができません。しかし、語ることは父と子と聖霊においてなされるというヴィジョンは、少なくとも論理的には破綻をきたしていないものではあるので、ここに記しておくことにします。



 
 
 
 

[第三の審級としての真理については、こちらの記事をご覧ください。なお、「父の意に適っている」という表現については、次回に掘りさげて考えてみることにします。]