イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

思考の(偽)メシア性という問題

 
 1.本来的思考において語られることは、父の意に適っている。


 この規定を眺めていると、次のような疑問が浮かんでくるのは避けられないように思われます。


 「はたして、神の意に適う思考などというものがありうるのだろうか。」


 自分が考え、話していることが神の意に適うものであると胸を張って言うことのできる人は、この世にはほとんど誰もいないのではないかと思います。しかし、三位一体論のロジックにしたがうならば、一応は1のような帰結が出てくることは否定できないようにもみえる。


 この事態を、思考の(偽)メシア性と呼ぶことにしましょう。思考は思考であるかぎり、無制約的な真実であることを目指すけれども、その理念と現実の思考のあいだには常に隔たりが存在してしまうという事態を、この概念は指し示しています。


 エマニュエル・レヴィナスは他者の身代わりとしての〈私〉というイデーに辿りつく過程で、偽メシアの問題に突き当たっていましたが(「サモ・ツワネッツ」の問題)、このことは、思考であるかぎりの思考についても当てはまるのではないか。思考はいわば、つねにすでにメシア的ではないという仕方においてメシア的であることを目指すとでも言えるかもしれません。



エマニュエル・レヴィナス 偽メシア 神 三位一体



 おそらく、哲学の言葉というものは、決定的な仕方でこの世の真実に迫りながらも、いつも何らかの点で語り損なうという運命を抱えているように思われます。


 宿命的な過ちと引きかえに、ある巨大な問いを問うことが可能になる。かくいう筆者も、気がついてみると、すでに引き返すことのできないところにまで、自分自身の過ちと問いの深みにまで引き込まれてしまっています。


 いつから、そうなったのだろう。今からもうだいぶ昔、この哲学なるものを学び始めたころには、自分はまだこの営みのことをほとんど何も知らず、もちろん神の存在をも信じてはいなかった。一体、すべてのことは、はたしていつから始まっていたのだろう……。


 哲学者にできるのは、その答えを見出すこともないままに、問いのうちへとさらに深く分け入ってゆくことだけです。彼にはもう、良くも悪くも、後ろを振り返らずに前に向かって歩み続けるしかないのかもしれません。