イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

法-外な贈与

 
 本題に戻って、もう一度、神の愛の哲学的表現のほうに立ち返ってみることにしましょう。

 
 「神の愛とは、現存在への、超越の内部超出のことである。」


 4月には、真理の審級の、わたしとあなたへの現前という問題を扱いましたが、心あるいは意識については、その内部と外部の境界を確定することは、本当に難しい。


 心の外部は存在するとしても、この点については、先入見でうかつに判定を下さないほうがよさそうです。さて、そのことを踏まえたうえで上の定義に立ち戻ると、ここでは絶対者が直接にわたしのうちで働いているということに、あらためて目が向きます。


 すでに少し触れましたが、西田幾多郎の『場所的論理と宗教的世界観』は、このモメントを扱った古典的論文です。西田ののちに彼のテーゼを直接に支持した哲学者はほとんどいないようですが、筆者は三位一体論の立場から支持します。


 絶対者はわたしから遠く隔たっているだけではなく、むしろわたしの内で、いかなる内面よりも深い内面において働くということ。内部性のリミットとしての絶対者の愛を思考するようにと、三位一体論は私たちに促しているようです。



神の愛 精霊 フィリオクエ論争 西田幾多郎 贈与 発出



 「聖霊は、父と子から発する。」ここには、古代から中世にかけての教会を騒がせた、フィリオクエ論争という神学上の大問題が絡んでいるのですが、そのことはとりあえず置いておくことにして、この表現のうちに含まれる贈与のモメントについて考えておくことにします。


 父と子からの聖霊の発出processio は、絶対者から人間への法-外な贈与です。それは、まったく何の条件も、代価もなしに与えられるという意味で、まさしく法-外なものであるといえる。


 絶対者は、ただ人間に愛を与えて与えて与えつくすというイデーが、この発出というイデーのうちには含まれている。この与えの逆説性のことを、ここではとりあえず「法-外」という言葉で表現してみましたが、この逆説性を人間の言葉で捉えつくすことは、おそらくは原理的にいって不可能なのではないかと思われます。