イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

受肉の問題は哲学に属する

 
 ロゴスの受肉というイデーに対しては、当然、次のような疑問が浮かんでくることが予想されます。


 「ロゴスの受肉というのは、話としてはあまりにも荒唐無稽すぎる。この話を哲学で扱うのは、さすがに無理というものではないか。」


 このような疑問はいうまでもなく、根拠のないものではありません。しかし、ここで私たちは、パスカルのあのよく知られたフレーズを思い起こすこともできるのではないか。


 「哲学を虚仮にすることこそ、真に哲学することである。」



 哲学の本領とは、およそ哲学の領域に属するとは思われないような問いを立て、その問いの内へとどこまでも深く分け入ってゆくことにある。もしもそうだとするならば、この問題に対しても、次のように自問してみることができるのではないか。

 
 「もしも神が存在するとしたら、神に不可能なことは何もないのではないか。」


 神が存在するということは、論理的には十分にありえます。もしそうだとするならば、その神が全知全能であると想定することは、けっして無理のある仮定とは思われません。



ロゴス 受肉 クァンタン・メイヤスー ブレーズ・パスカル 哲学


 
 そして、神がもしも全知全能であるならば、ロゴスを受肉させることが不可能であるとは、少なくとも人間には断言することができないのではないか。


 ロゴスの受肉というイデーは、人間の想像力を完全に超えています。しかし、人間の思考を超えることが起こらないという保証はどこにもないとするならば、どうだろうか。


 この点については、クァンタン・メイヤスーという哲学者が、現代でもこれに近い議論を展開しています。有限性というモメントが近代の思考や人間観をしるしづけていましたが、この現代においては、有限性を超え出るものや出来事について、ふたたび思考しはじめる道が開かれつつあるのではないか……。


 あらゆる想像を超える出来事を思考することは、哲学をどのような方向に向かわせるのだろうか。ここはまだ十分に開拓されていないフロンティアなので、私たちとしても、手さぐりで一歩一歩進んでゆくしかなさそうです。