絶対的転覆について考えるために、信仰の言葉を参照してみることにしましょう。『出エジプト記』第三章において、シナイ山でモーセから名を尋ねられた神は、次のように語ったとされています。
「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
「わたしはある。」奇しくも、この箇所でまさしく存在という語が語られていることは、神学のみならず、哲学にとっても極度に重大な意味を持っているのではないかと思われます。
〈存在〉そのものである神の存在からすれば、思考する意識であるわたしの存在は、実体に対する影のようなものにすぎないことになる。わたしの見いだすどんな明証性も、神の「わたしはある」によって完全に覆されてしまうということにならざるをえません(絶対的転覆)。
デカルトは、「わたしは考える、ゆえに、わたしはある」というテーゼを、彼の哲学の根幹に据えました。これが、あまりにも有名な彼の「コギト・エルゴ・スム」ですが、このコギト命題は本来、神の「わたしはある」との対比においてこそ考えるべきものなのではないか。
「わたしはある。わたしはあるという者だ。」
「わたしはある。」奇しくも、この箇所でまさしく存在という語が語られていることは、神学のみならず、哲学にとっても極度に重大な意味を持っているのではないかと思われます。
〈存在〉そのものである神の存在からすれば、思考する意識であるわたしの存在は、実体に対する影のようなものにすぎないことになる。わたしの見いだすどんな明証性も、神の「わたしはある」によって完全に覆されてしまうということにならざるをえません(絶対的転覆)。
デカルトは、「わたしは考える、ゆえに、わたしはある」というテーゼを、彼の哲学の根幹に据えました。これが、あまりにも有名な彼の「コギト・エルゴ・スム」ですが、このコギト命題は本来、神の「わたしはある」との対比においてこそ考えるべきものなのではないか。
1.思考する意識としてのわたしの「わたしはある」(コギト命題)
2.絶対者としての神の「わたしはある」(「主の御名」)
デカルトも言うように、1については確かに、何人もその真理性を疑うことができません。わたしの思考はいつでも誤る可能性にさらされていますが、そのように疑っているわたし自身がまさにその瞬間に存在すらしないということは、可能性としても考えられないからです。
それに比べて、2は、それが真理であるかどうかを必然性とともに確認することは、わたしにはできません。
しかし、もしもこの2が真理であるならば、思考するわたしすらも、この「わたしはある」と語る神によって創造されたことになるという意味で、ここには比類ない転覆の可能性があるということになる。神の名としての「わたしはある」は、破壊的な壊乱の可能性をも含む決定不可能性のうちでわたしに提示されているといえます。