1.思考する意識としてのわたしの「わたしはある」(コギト命題)
2.絶対者としての神の「わたしはある」(「主の御名」)
1のコギト命題はデカルトが主張するように、絶対確実に真です。けれども、この命題は「わたしがそのつど思考するかぎりにおいて」という条件が付いています。
逆を言えば、思考するわたしが存在するということは、わたしが思考していなければ(=思考する意識が存在しなければ)保証されません。このように、コギト命題の真理性については、この「そのつど性」とでも呼ぶべき性質を忘れないでおくことが重要になってきます。
さて、この「そのつど性」を念頭に置いたうえで、2における絶対者の「わたしはある」を合わせてもう一度コギトについて考えてみるならば、どうか。
そうなると、思考するわたしのよるべなさ、あるいは脆弱性は、ますます際立ってこざるをえません。私たちが絶対的転覆と読んだ出来事の構造を考えるならば、コギトの存在はそれこそ、今にも消えそうになりながらゆらめく炎のようなものにすぎないということになる。
その存在が絶対に確実ではあるけれども、それも、ただ自分で自分にしがみつくようにして自らについて思考するあいだにすぎず、自らが自らの作者であるわけでもなく、いつでも、あたかも砂のように消される可能性に常にさらされている。
ところで、コギト命題を主張した当のデカルト自身も、悪霊という例を用いつつ、このコギトの脆弱さについて思考しています。
けれども、デカルトはこのコギトの存在から自然科学の真理をも含む真理への到達を、一本の堅固な道でつなごうとしました。その道を歩もうとする前に、このコギトの脆弱さの次元に踏み止まって考えるべきだったのではないかというのが、筆者の考えです。
近世・近代以降の人類は、自然科学の知識と科学技術において、膨大な進歩をとげました。そのことと歩調を合わせるかのようにして、思考する意識であるコギトは、この「知ハ力ナリ」を支える根源的な立脚点でありつづけてきました。
カントやフッサールまで続くこの道はしかし、コギトを脅かすこの弱さの次元に目を向けずに歩まれたものだったのではないか。現代の哲学はもう一度このコギトそのものにまで立ち返って考えてみるべきなのではないかと、筆者は考えています。
1のコギト命題はデカルトが主張するように、絶対確実に真です。けれども、この命題は「わたしがそのつど思考するかぎりにおいて」という条件が付いています。
逆を言えば、思考するわたしが存在するということは、わたしが思考していなければ(=思考する意識が存在しなければ)保証されません。このように、コギト命題の真理性については、この「そのつど性」とでも呼ぶべき性質を忘れないでおくことが重要になってきます。
さて、この「そのつど性」を念頭に置いたうえで、2における絶対者の「わたしはある」を合わせてもう一度コギトについて考えてみるならば、どうか。
そうなると、思考するわたしのよるべなさ、あるいは脆弱性は、ますます際立ってこざるをえません。私たちが絶対的転覆と読んだ出来事の構造を考えるならば、コギトの存在はそれこそ、今にも消えそうになりながらゆらめく炎のようなものにすぎないということになる。
その存在が絶対に確実ではあるけれども、それも、ただ自分で自分にしがみつくようにして自らについて思考するあいだにすぎず、自らが自らの作者であるわけでもなく、いつでも、あたかも砂のように消される可能性に常にさらされている。
ところで、コギト命題を主張した当のデカルト自身も、悪霊という例を用いつつ、このコギトの脆弱さについて思考しています。
けれども、デカルトはこのコギトの存在から自然科学の真理をも含む真理への到達を、一本の堅固な道でつなごうとしました。その道を歩もうとする前に、このコギトの脆弱さの次元に踏み止まって考えるべきだったのではないかというのが、筆者の考えです。
近世・近代以降の人類は、自然科学の知識と科学技術において、膨大な進歩をとげました。そのことと歩調を合わせるかのようにして、思考する意識であるコギトは、この「知ハ力ナリ」を支える根源的な立脚点でありつづけてきました。
カントやフッサールまで続くこの道はしかし、コギトを脅かすこの弱さの次元に目を向けずに歩まれたものだったのではないか。現代の哲学はもう一度このコギトそのものにまで立ち返って考えてみるべきなのではないかと、筆者は考えています。