もう少し、信仰の言葉に耳を傾けておくことにします。
「受肉したロゴスであるキリストは、人間に、主体性の究極のあり方を示した。」
信仰の言葉によれば、神がキリストとなってこの世に降ってきた目的はさまざまにあるけれども、その一つは、人類の教師として生きるべき道を人間に対して示すことにあったと言われています。
さて、それではその道は具体的にいってどんなものであったかといえば、これは突き詰めれば、他者の身代わりになるという一点に尽きるように思われます。
他者のために身代わりとして犠牲になるというのは、隣人への愛の究極のかたちです。聖書によれば、神の子であるイエス・キリストは、すべての人の罪の贖いとして、身代わりとなって十字架上で死んだとされています。
「受肉したロゴスであるキリストは、人間に、主体性の究極のあり方を示した。」
信仰の言葉によれば、神がキリストとなってこの世に降ってきた目的はさまざまにあるけれども、その一つは、人類の教師として生きるべき道を人間に対して示すことにあったと言われています。
さて、それではその道は具体的にいってどんなものであったかといえば、これは突き詰めれば、他者の身代わりになるという一点に尽きるように思われます。
他者のために身代わりとして犠牲になるというのは、隣人への愛の究極のかたちです。聖書によれば、神の子であるイエス・キリストは、すべての人の罪の贖いとして、身代わりとなって十字架上で死んだとされています。
前にも一度書いたように、この生き方はあまりにもハードルが高すぎて、実践に移すことはほとんど不可能であるとも言えるほどです。それでも、強制収容所で、子供のいるある父親の男性の身代わりとなって死んだコルベ神父のように、この生き方を実行した人間は、決していないわけではなさそうです。
すぐさま付け加えておくと、筆者には、少なくとも今の時点ではこの生き方にならうことはできません……。ただ、ここには哲学的にみてきわめて重要な論点が含まれているといえるのではないか。
前世紀を代表する哲学者であるエマニュエル・レヴィナスは、後年になって、「わたしとは他者の身代わりである」というテーゼに行き着きました。これは、聖書で語られているメシアの生き方と、まさしくぴったりと重なるものです。
ほとんど実現不可能なものにも見える倫理のかたちは、かえって、そこから発される光によってふだんの私たちの生き方をくっきりと照らし出させるともいえるのではないか。
愛の究極のかたちを見ることによってこそ、人間は、少しずつ愛を知り、実践してゆくことができるのだとしたら。私たちは、ここにもあのイデア的なもののロジックが働いているのを見いだしつつあるように思われます。