イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、キリスト者としてブログを書いています。

イデア性と受肉性

 
 ある存在者、または出来事については、次の二つの側面に注目することができます。


 1.イデア
 2.受肉性


 1は、そのものの「何デアルカ」を示す、理念的なアスペクトです。これに対して、2は、その理念がまさにこの世界にリアルなものとして実現されるさいの、その実現のプロセスそのものを言い表しています。


 キリストの十字架の例でいうと、十字架の出来事は、「神は、自らが痛むことをいとわないほどに人間のことを愛している」というイデーを、まずは示しているといえる。


 しかし、このイデーが純粋なイデーのうちにとどまるならば、このイデーが真実かどうかはわかりません。神がもし存在するとしても、神は人間のことを愛しているかもしれないし、愛していないかもしれない。この点については、あくまでも未決定のままにとどまります。


 しかし、もしもこのイデーが受肉して、この世界の歴史の現実のうちで実現されたとしたら。すなわち、もしも神が二千年前のゴルゴダで実際に痛みのうちで死なれたのだとすれば、その時には神の愛は、疑いえないものになるでしょう。



十字架 イデー イデア性 受肉性 キリスト



 このように見てくると、信仰にとっては、イエス・キリストが実際に十字架上で死に、そして復活したのかどうかということが、この上なくクリティカルな問いとなって立ち現れてくることになります。つまり、十字架は、たとえどのような高い評価を受けようとも、たとえ話であっては困るわけです。

 
 「わたしは、キリストの話を信じるわけじゃないけど、とても心を動かされる。なんていうか、自分の生き方を変えられるような感じがするの。」


 お嬢さん、それは大変に素晴らしいことです。しかし、そこまで来たならば、ぜひさらにディープな一歩を踏み出してみてほしい。彼はまさしく神の子であり、贖罪の子羊であり、その血はゴルゴダで実際に流されたのだ。さぁ、お嬢さん、今からもう少し向こうで、もっと掘り下げた話を……。


 ……などと言ってしまうと、かえって逆効果なうえに筆者の人格がまともであることすら疑われかねないので、狂気を隠してこっそり黙っていたほうがよさそうですが、いずれにせよ、イデア性と受肉性というトピックが哲学的にみて重要であることは、どうやら間違いがなさそうです。