「本当の意味での他者たちとの関係は、関係の不可能性に直面するところからはじまるのではないか。」
お互いに、自分が見たい面だけを相手のうちに認めつづけていること。そして、他者がわたしとは違う仕方で考えているということに、私が耐えることができないということ。
けれども、ただ単に違いに目をつぶるというだけでは、その場合にもあなたとの距離は離れてゆく。互いに大人らしくふるまおうと自分自身に言い聞かせることのうちで、あなたへの渇望も関心もすり減ってゆく。
この世の言葉づかいを用いるならば、他者との関係には、莫大なコストがかかります。そして、関係においては、未来を読むこともできない。私とあなたの関係がこれからどうなってゆくのかということは、どの時点においても予断を下すことができません。
けれども、人間として生きるとは他者たちのあいだで生きることであるということを、誰もが知っています。わたしには、たとえ自分でそう望んだとしても、あなたへと向かおうとする衝動を消し去ってしまうことができないからです。
「人間の欲望は、他者の欲望である。」ヘーゲルやラカンに限らず、あらゆる哲学者たちの書いたものから伝わってくるのは、この渇望にほかなりません。それは、どれほど深く絶望しても断ち切ることができず、まったく喜ばしいわけでもないにも関わらず、自分の意に反するようにしてわたしを突き動かすパトスです。
人間は、他者に倦み疲れながら、それでも他者を求めることをやめることができない。おそらくはこのことこそが、自殺すらも他者への悲痛な叫びであらざるをえないような、人間の持って生まれた宿命なのではないだろうか。
エマニュエル・レヴィナスが他者との関係のことを宗教と呼んではばからないのは、他なるものへと向かうこの要求のうちに絶対的なものを見てとらないわけにはゆかないからなのではないか。この意味からすると、およそ人間のうちで宗教的ではない人間は存在しないということができるのかもしれません。