イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

窓を眺める子供は

 
 もう一度、ニヒリズムのほうに話を戻すことにします。
 

 「ニヒリズムの根底には、わたしにとって他者が存在しなくなっているという事情があるのではないか。」
 

 この世界には意味がないと、わたしは感じている。しかしそれは、実はわたしがわたし自身の観点からしか世界を眺めていないからなのではないか。
 

 最近、筆者はアルバイト先までゆくのにバスを利用することがあります。先月、その途中の車内で、前の座席に2才か3才くらいの子供がお母さんと一緒に座っていたことがありました。
 

 その子供は一時も休むことなく、夢中に外の風景を眺めつづけていました。彼にとっては、目に飛び込んでくるもののすべてが新鮮に映っていたようです。
 

 筆者にとっては当たり前のものでしかない風景も、おそらくこの子供には驚異の連続としか呼べないようなものに見えていることだろう。これから先の未来に世界に出会ってゆく子供を前にして、果たしてそれでも世界には意味がないと言うことができるだろうか……。
 
 
 
ニヒリズム 他者 イギリス経験論 ヒューム ニヒリスト
 
 

 イギリス経験論と呼ばれる流れに属する哲学者たちの思考を追っていると、このような、世界との無垢な出会いは誰にでもあったのだということに、あらためて気づかされます。
 

 異国の果物をはじめて口にする時のように、わたしが最初に因果律を味わったとき。たとえ、今のわたしにとって世界がなんの新しさをももたらさないものに思えたとしても、これから生まれてくる命が世界と出会うことには、やはり意味があると言わざるをえないのではないか。
 

 バスの中の子供は、空には飛行機が飛んでいて道には車が走っているものだということを、その時はじめて言葉とともにはっきりと理解したようでした。ヒュームならばさしずめ、ニヒリストは、習慣づけられた世界と世界への習慣づけのプロセスとを区別すべきであるとでも言うところかもしれません。