イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

スクリーンは否認のために……。

 
 1.唯一的な主体としてのわたしへの、わたし自身の存在の贈与あるいは外傷。(現実的なモメント)
 2.コギト、すなわち思考する主体としてのわたしの思考。(想像的なモメント)
 

 もう少し詳しく、この二つのモメントの関係について考えてみることにします。
 

 1は、「わたしがこの人間として生まれたということ」あるいは「わたしが今、この人間であること」を与える贈与あるいは外傷です。そのかぎりで、この外傷は単なる概念の次元ではなく、生身の現実に関わっています。
 

 そして、すでに論じたように、2の思考は1の外傷に対して事後的であるため、決して1の贈与あるいは外傷が与えられるまさにその瞬間に追いつくことができません。
 

 わたしは、わたしが生まれ落ちるその瞬間に決して立ち会うことができない。あるいは、わたしが他の誰でもないこの人間であるという事実の端的性のうちに、つねにすでに巻き込まれている……。
 

 このことの結果として、わたしは、わたしにはどうすることもできないこの1の瞬間を、まるでそんなものがなかったかのように否認する傾向を持つことになります。1のモメントがまさしく外傷と表現されるゆえんです。
 
 
 
コギト 外傷 モメント 否認 他者
 
 

 おそらく、この否認への欲求は、それが無意識的なものであるだけに、きわめて強大なものになりうるのではないか……。
 

 「わたしは、生まれたりなどしなかった。わたしは、今のこの人間とは別の人間でありうる。」
 

 映画のスクリーンは、存在するという外傷を忘れさせる幻を映し出します。わたしはその幻のうちで、映し出されている誰かをわたし自身とみずから進んで取り違える。人間は、自分自身が存在しないと自分自身に言い聞かせずにはいられないほどに狂っているのではないか。
 

 わたしが他の誰でもないこのわたし自身であることが、実はそれほどまでに耐えがたいことなのだとしたら……。その場合には、どんな映画であっても、その本質においてはサイコホラーのもの以外ではありえないということになるのかもしれません。