傷と痛みについて考えつづけていると、ひとは次のようなイデーに捉えられずにはいないのではないかと思われます。
「わたしの生は、根源的に、わたし自身の自由になるものではない。」
わたしの生の方向を決定づけることが大きいのは、喜びよりもはるかに痛みのほうなのではないか。実際、他者たちからその人自身のライフストーリーを聞くとき、私たちは、傷というものがいかに人間をその根底から変えるものであるかということにしばしば驚かされます。
傷がその人の生の進む方向を大きく変えるという、このイデーがもしも正しいとするならば、そこからは、運命に対する私たち自身の受動性が一層はっきりと際立ってこざるをえないのではないか。というのも、すでに論じたように、この世には自らすすんで傷を被ることを望む人はいないからです。
わたしの生は、わたしが決して望むことのないものによって変えられつづけてゆく。ここから見えてくるのは、いわゆる自己実現と呼ばれるプロセスとは根本から様相を異にする、私たち自身の生の姿です。
わたしがひとを愛することを知ったのは、あの人に愛されることによってではなく、あの人に拒まれることによってではなかったか。エウリュディケーは彼女を見つめるまなざしのうちで消え去ることによって、オルフェウスをついに詩人にする……。
生きることとは喪うことからはじまるということを、精神分析は私たちに教えています。傷むこと、病むことのうちに生の意味があるというのは、それを受け入れるにせよ受け入れないにせよ、どうにも否定しがたいのではないだろうか。
ここからは、エウリュディケーは本当はオルフェウスとは一度も愛しあったことがなく、むしろオルフェウスは消え去るエウリュディケーを見つめることによって、はじめて彼女を愛しはじめたのだという逆説さえ成り立つのではないかと思われます。途中から少し話が逸れてしまいましたが、「愛される女はつねにすでに冥界にいる」を今日の後半の結論にしておくことにします。